長編ライトノベル「勇者の鬱」1章


 【一章】勇者の帰還、そして失職。



 実のところ、魔王の城に乗り込んでいったときのことは、あまり記憶がない。

 ただ倒すことだけを考えて剣を振っていた。ともかく勇者と担ぎ上げられて舞い上がっていた。俺は別に世界を愛しているわけでも、正義感が人より強いわけでも、大義とか大志とか信念があるわけでもない。修行を積んで戦いの現実を知った。自分でもよくわからないことを喚きながら剣を振り回していた。返り血が口の中に入っても、汗が目に入っても、どれだけ体が傷や疲労で悲鳴をあげても、たった一人で視界いっぱいの敵を倒すためには無になるしかない。一種のトランス状態だったと思う。やるか・逃げるか、殺すか・生きるか、の二択を常に突き付けられていた。俺が生きているのは、最後まで死なずにやりきったという結果でしかない。

 でも、そんな殺伐とした暮らしも今日で終わりだ。

「ヘイ聞けよこの国のキング! 俺は告げるぜ平和のシング! 勇者、ただいま帰還いたしましたぁ――! FUU――!」

 語尾を上げながら両手も上げて国王の前に行くと冷たい視線が刺さるし、広間もバイブスは上がらずに冷え切ったままだ。まーた滑っちゃったぜ。

 しばらく笑顔のままで固まっていた髭ポチャの国王様はなんとか一度頷いた。

「よく帰ってきてくれた。君なら成し遂げると信じていたよ、アルバトロス君」

「当然ですよ当然! 楽勝でしたわ! 連中みんな片手でひねり潰してやったわい!」

 とりあえず笑い飛ばしておいた。俺の帰還に駆けつけた騎士団には顔見知りもいて、つまんねぇと思っているのかTPOを弁えているのか知らないが、控えめに苦笑していた。

 王様の隣のスワン姫は、宝石のようにうるわしい緑色の瞳を細めて微笑む。俺より二つ年下の彼女は、ちょっとマヌケ面の国王様の娘と思えないくらいに整った顔立ちだ。王妃様がきつい美人なので、きっと二人のいいところを継いだのだろう。

「旅の武勇を聞かせてね、勇者様。あぁ、魔王城ではどんな戦いをしたのかしら!」

 上流階級とはとても思えないきゃぴきゃぴした喋り方だ。親近感がわく。

 何を話せば良いのだろうか。俺は魔王城でのことをほとんど何も覚えていないのだ。

 俺と魔物以外は現場を見ていない。今後の俺は適当な武勇伝をでっち上げて口から出任せを言うしかないのだ。そう思うと憂鬱だ。

 それでも、一つだけ覚えていた。

「月が綺麗でしたよ」

 相変わらず俺が口を開けば、痛ましい視線と共に世界は風のない日の湖面みたいにシンとする。

 どう考えても剣一本で魔王城にカチコミをかけるなんて頭おかしい。どんなに斬っても痛まない退魔の剣と言っても、いいところなんて勇者にしか持てないことと、手入れをしなくていいことくらいだ。生きて帰って来られた事に現実味がない。いまいち生きている実感がない。そんな沸騰した脳味噌に焼き付いた光景がある。

 ロビーの中央に空いた大きな穴は、魔族の住む地底に通じている。穴を囲うように作られたステップ。その先には開け放たれた大きな窓。四角く切り取られた夜景と三日月を背に、俺を振り返る女の子がいた。

 すらりとした儚げで華奢なシルエット。闇からエキスを抽出したような不思議な質感の深紫の髪。未亡人みたいな色だけど花嫁みたなふわりとしたドレス。一番印象に残っているのが、吸い込まれそうに深い闇の色をした知的で大きな瞳だ。

 魔王城の記憶、それだけ。

 魔王の顔も思い出せない。でも、そんなことは言えない。俺に惚れてる女の子を無闇に傷つけてしまうかもしれない。

 俺は王国で二年半の修行に励み、半年で魔王を討伐した。その二年半、姫は俺にベタ惚れでつきまとっていた。とは言っても俺が姫と釣り合うなんて端から思っていないので、美人にモテて嬉しい程度だ。王様になるなんて想像できないし、申し出を受けるつもりもない。つまり告白を受けたら断らなくてはいけない。その覚悟をもって、俺は今日ここに帰ってきた。公衆の面前で一国のお姫様をフる勇気、これもまた勇者の所業。

「でもね、勇者様。私もこの半年で大冒険をしちゃったの」

 そして姫様は俺――の後ろにアイコンタクトを飛ばし、親しげに笑いかけた。妙な予感に胸がざわつく。

「カイト!」

「は。姫様」

 畏まりながらしずしずと前に出る男。

 俺はこいつを知っている。なんなら友達だし修行仲間。第一騎士団長カイトだ。

 金と茶の中間の髪色。顔は精悍かつ爽やかに整い、身長は高く足は長く細身の筋肉質で、聞く者が聞き惚れる美声のバリトン。年齢は俺より少しお兄さん。

 カイトと一瞬目が合って、すげえ気まずそうに視線を逸らされた。おい!

「勇者様。ううん、みんな。聞いて! 勇者様が帰ってきたから、私、第一騎士団長のカイトと結婚しますっ!」

 俺達の間に流れる微妙な空気を一切顧みず、姫様は勇者の帰還に集まった者共に向けてきらきらとした笑顔を向けた。

 わあっと観衆が沸いた。俺が帰ってきたときより歓迎ムードなの、なんで? 思いっきり白けてたよね? これがマイクパフォーマンスの差? いや、これでいいんだよ! いいんだけどさあ。感情がついていかない。フることの覚悟はしてきたのにフられる覚悟はできていなかった。それだけ長い時間を留守にしていたことはわかっている。ただ、俺の知らない時間の流れを受け止めるために、俺にも時間をくれ。旅立つ前はぞっこんだった姫様に公衆の面前でフられたんだぞ。姫様が俺のこと好きだったの、みんな知ってんだからな。

「勇者様が帰ってきてくれて本当に良かったわ! この国はもう安心ね。本当にありがとう!」

 姫様は両手を握って涙ぐんだ。命がけの仕事のわりには感謝の言葉が軽い気がした。

 俺は側で控えるカイトに視線を向ける。怒りでもなく、悲しみでもない。俺に何が起こっているの?

「厳しい修行を共に乗り越えた君だからこそ信じていた。君は誰よりも強かった。本当によく帰ってきてくれたね。ありがとう」

 面白くない謝辞だ。事務的な口調は人前だからか。とはいえ俺の目を見ないのはなぜだ。そんなに後ろめたいのか。なんて詰るつもりはないけれど。

「もし君さえよければ今後は第一騎士団の特別顧問として共に働いて欲しいのだが……」

「いや。俺、故郷に帰るわ。お二人ともマジお幸せにな!」

 鍋を叩いてアッケラカンという音が鳴るかのように明るい声しか出なかった。俺の頭は空鍋だ。


***


 風は土と若草の織り混ざった香り。風向きにより肥やしの香り。農作地と牧場の動物たちに囲まれた田舎の景色は、妙にほっとした。本音を言うと、なんにもない景色をつまらないと思ったことは一度もない。今は泣き出しそうに懐かしい気持ちになった。

 幼なじみ達は林檎を収穫していた。三年も経ったのに昔の風景そのままだ。

「変わんないなぁ……」

 脳味噌からストンと落ちるように声が出た。このまま数歩前に出るだけで以前の暮らしにすんなりと戻れる。自分の輪郭がぼやけて、景色の一部として馴染む感覚がある。

 俺はこの辺境の農村で育った。もし魔王を倒すなんてことがなければ、ここから一歩も外に出ないで死んでいっただろう。今思えば、幸せなことだ。

「アル……?」

 幼なじみ達が振り返った。まるで幽霊の声でも聞いたように、おそるおそるという調子で首を回した。

「ただいま」

 よっ、と手をあげる。

「嘘! アルが帰ってきた!」

 深い森みたいな色の大きな目を更に大きくして、クーは素っ頓狂な声をあげた。そしてぽろぽろと泣き出した。

「なに泣いてんの。久しぶりに会ったんだぜ。泣くなよな。本当にクーは泣き虫なんだから。しょうがないやつ!」

 身長の小さい彼女のつむじに手を乗せるようにしてポンポンと叩く。

 クーはすぐに泣いてしまうから、いつでも差し出せるようにポケットに綺麗なハンカチを入れていた。ハンカチを出そうとしたら、もう一人の幼なじみであるスパロウに肩を強く掴まれた。

「お前、よく生きて帰ってきたなぁ!」

 固くハグされたら、俺まで泣きそうになって言葉が詰まった。熱くこみ上げてくるものをなんとか飲み下して笑いに変える。辛いときに無理矢理ふざけて笑うわけじゃない。嬉しいときに泣きたくなったから思い切り笑うのだ。

 苦痛と疲労と剣の柄の感触しかない三年が薄らいでいく。やっと静かな暮らしに戻れるんだ。幼なじみと自然に囲まれて、体にも心にも優しい空気を吸い続ければ、きっと三年前の俺に戻れる。鼻の奥にこびりついた鉄錆みたいな血の生臭さも消えていくはずだ。

「バーカ! 悪運の女神に愛されてる俺が死ぬわけあるかよ」

「冗談きついぜ」

 ギクッとするようにスパロウは一瞬だけ体を強ばらせて、ぎこちなくゆるりと離れていった。

「アル、なんか雰囲気変わったね」

 まぶしそうに目を細めて、クーは俺を見上げる。肩を覆うふわふわした麦色の髪が、光に透けて輝いた。寂しそうだった。

「そうか?」

 俺から血の臭いでもするのだろうか。そんなに殺伐とした顔をしているだろうか。簡単な一言の質問するだけで自分の中の不安が煽られていく。俺は何に対して焦燥感に駆られているのだろうか。

「うん。勇者って、すごくすごく大変なお仕事なんだね。でも、そうだよね。たった一人で魔物を倒して、人間を救ったんだもん。絶対に大変だよ」

「まあね? でも俺ってば天才だから、これしきチョロチョロでしたけどね! それよりクーはちょっと太ったんじゃないの~?」

「えへへ。あんまり言わないで欲しいな」

 恥ずかしそうに身をよじるクー。

 彼女はちょっと不思議な体質をしていて、冬になると毛皮を着込むようにぷくぷく丸くなって、温かくなると不思議とスマートになる。都会で出会った女の子達とは違って本人はあまり気にしていないし、季節の目安みたいに毎年似たようなことを言っていた。違和感があるのは、そんなこと言うときはいつもならもっと涼しくなっている頃だし、今のクーは頬も二の腕もすっきりしているからだろう。お腹だけが少し出ているのだ。

「よくわかったな。まだ四ヶ月なのに」

 低い声でスパロウは言った。

 視線がそれた。クーの笑顔が気まずく引っ込んで、口元だけの愛想笑いになった。

 なにがまだ四ヶ月……?

 ……あっ、妊娠四ヶ月?

 俺は続きの説明を求めてスパロウを見つめた。なんて聞けば良いのかわからないから、ともかく見た。睨んではいない。まん丸に開いた目をなんどもパチパチすることしかできない。パパは誰? いや、聞くまでもないか。みんな揃って沈黙しちゃったもんな。

 スパロウがふてくされた顔でなんにも言ってくれないから、俺はクーに目を向けた。事態を飲み込めなさすぎて両唇が隠れるくらい噛んじゃって変な顔をしているだけだ。

「私、スパロウと結婚するの」

 クーはいじいじと両手を組んでいた。結婚の報告はどうせなら幸せそうにしてくれよ。姫様みたいさ。

「おめでとう!」

 普段はべらべらといらないことを喋る気質だが、今日はちょっと調子がアレでいい言葉が出てこなかった。

「ごめんね。もっと落ち着いてから言おうと思っていたんだけど……」

「そっか。予定狂わせちゃってごめんな。俺が変なこと言ったせいだな! これに懲りて女の子の体型にコメントするのは控えるか。セクハラだもんな」

 軽薄に笑うが、上滑りな気がする。何年もずっと一緒にいたはずなのに、急に距離の取り方がわからなくなってしまった。

「王都に残るのかと思ってたよ」

 スパロウの声は低い。必至で取り繕ってはいるが、戸惑いがにじみ出ていた。

 なんで今更戻ってくるんだよ、なんて言われてもおかしくないだろう。

 あと半年早く戻って来ていたら俺はクーに婚約を申し込んでいただろう。何の疑いもなく受け入れてもらえると信じていた。うぬぼれじゃないと思うんだ。

 全身の毛がざわざわと逆立って、冷や汗が噴き出してくる。あんなに懐かしく感じた故郷の空気が俺を拒否している。

 最初の一歩はよろけて下がった。そのままいくと倒れてしまいそうだったから、二歩三歩は意識的に膝を伸ばして足をついた。

「直接報告したかったんだよ! 俺はばっちり元気ですよってなもんよ。残念、もう田舎には住めないってばよ」

 もうここには住めない。俺のいない暮らしに馴れた二人を戸惑わせることはできない。だからなにか理由をひねり出さないと、気をつかわせてしまう。用事を済ませたら二人の目に入らないところへ去ろう。

「遊ぶ場所がねえ、飯食う場所がねえ、新しい店もねえ、なんも情報入ってこねえ、田舎はねえねえ尽くしだからねえ?」

「まあ、そうですねえ」

 スパロウは仕方ないものを見るように笑った。クーは傷ついたように眉を寄せて、だけど無理矢理笑った。

「ほんと、アル、雰囲気変わったな」

 お前達も変わったな。まあ、三年も経ったから仕方ないな。


***


 俺は再び王都に戻ってきた。

 そして、一人で深酒していた。一杯飲む毎にため息が深くなっていく気がした。

 大衆酒場ではあるが俺の顔見知りはいない。勇者は特務のため存在を広く告知されおらず、関係者のごく一部しか俺のことを知らない。俺のことを知っているやつらは高給取りなので、こんなに安くて汚い店には来ない。そして隅で壁を見ながら背中を丸めて陰気になることもないだろう。

 報酬金は一生暮らせるくらい貰っているから節約の必要はない。一人になりたいけど、宿で一人静かに飲んだらうっかり自殺してしまうかもしれないから、賑やかでケチ臭い店に来ていた。しかし、深夜二時の閉店後、自分の足取りがちょっと心配だ。落下するのにちょうどいい高さの建物とか、身を沈めるのにいい湖とか、色々と心当たりがあるんだよな。

「森でお花を育てよう……私は白い服を着よう……皆でお日様を照らし続けよう……」

 故郷のメロディがゲロの代わりにこみ上げてきた。クーに教えて貰った歌だ。

 俺達の地元は流れ者が辿り着く隠れ里みたいな土地で、新しくやってきた人たちはだいたい駆け落ちカップルだった。そんな場所だから特別な祭りや歴史はない。俺とクーとスパロウでこっそり歌ってた三人の合い言葉みたいなものだった。

「うん? ずいぶんしけた顔をしているね。らしくないなあ」

 地獄のようなオーラを発している俺から目を背ける者はいたけれど、わざわざ隣に座って声をかけてきた気遣い屋がいた。

 顔を上げて、しばらく悩んだ。というのも、変な形の帽子で顔が隠れているのだ。この帽子、ズルズルの外套には見覚えがない。

 いや、待てよ。この小柄さ、この中性的でハスキーな声質。背中に背負った円盤風の何か――きっと小振りなハープ。

「レイヴン?」

「ああ、ごめん。おひさしぶりー」

 帽子の縁に指をかけてひょいとツバを上げた顔は見覚えがあった。

 真っ白な肌。猫のような金色の目。珍しい紺色の髪。口の端は動物みたいにニュッと上がっている。可愛いんだけど、美形というカテゴリからは少し外れた面白い顔立ちだ。

 顔見知りには会いたくなかったのに、思わぬ再開に嬉しくなってしまった。挨拶もせずいつの間にかいなくなっていたから、もう二度と会えないと思っていたのだ。

「あれー? 髪切った?」

 前はもさもさと長い髪だったが、今は顔周りがすっきりとしていた。後ろの一束だけ尻尾みたいにぴょろっと長い。

「そうそう。さっぱりしたでしょ?」

「似合う似合う。その帽子とコートもイカしてるな」

「一仕事終えたから全部新調したわけ。収入を見越してね」

 レイヴンは両手で帽子の縁を握って目深に下げると、また顔が半分見えなくなった。そして、何の断りもなしに俺の隣へと座って注文を済ます。

「なんでこんなところで一人で暗い顔してんのさ」

「そういう日もあるよ」

「でもでも、ユーはもっとちやほやされていいんじゃないのかい? ユーがやり遂げたことの話は聞いたけど、ユーの話はちっとも聞こえてこないよ」

 答える気分にならず、俺は「うぅーん」と唸った。

 実はこいつ、外部で俺が勇者だということを知っている限られた人間の一人である。酒場で知り合って、つい、ぽろっと喋っちゃった。喋った後ですごく後悔してその後は気をつけているのだけど、幸いなことにレイヴンは信じられるやつだった。半年間の旅の最中、戦ったりはしないけれど、俺の行く先々で愚痴を聞いてくれた唯一の仲間である。

「レイヴンこそなんでこんなところいるんだよ。こちとら誰にも会わず一人静かに過ごしたかったんだよ」

「そいつはごめんよ。でもミーは自由気ままな吟遊詩人だからどこにいたっていいじゃない。逆に、同じ店に居合わせて声をかけなかったら気まずくない?」

「それもそうだな。また会えて嬉しいよ」

「こっちは追いかけて来たんだぞ! ここで会ったのは偶然だけど」

「なんか引き合ってるのかな。俺なんか普通すぎるから後ろ姿で見分けつけられない自信あるぜ。どうやって気づいたんだよ」

「ミーはわかるよ? でも全体的にパッとしないよね、アルって」

「畜生、知ってらあ」

「それはそうとしても、どこいってもぜんぜん勇者の噂を聞かないんだよ? これじゃ詩を作ってもただの作り話だって思われちゃう。せっかく密着取材したのに」

「マジで作ってんの? 照れくさいな」

「照れんな照れんな。これでユーもミーも伝説になるはずなのさ。はずだったのさ!」

「俺は伝説とかあんま興味ないけどな」

 ウキウキしているレイヴンの単純さが笑えたけれど、ノリを合わせる気になれなかった。やっぱり疲れているんだ。辛い記憶が多いので、今は全部忘れて普通の人に戻りたい。とはいえ、その間にできた友達は大事にしたいんだけど……あれ? 俺、矛盾してる?

「つまんないこと言うなよー。なに? なんか政治的なことに巻き込まれてんの?」

「俺に政治なんて言葉似合う? お似合いじゃない高嶺の花に青磁の壺を売りつけられたってんならわかるけど。話はもっと低次元」

 茶化してみようと試みたが、空回りの言葉じゃ自分の心を奮起させられない。無理しなくちゃいけないから誰にも会いたくなかった。でも、そろそろ限界だ。

「居場所がねぇ~よぉ~……」

 だばっと涙が溢れてきた。間近にこみ上げていた感情が引き摺りだされてしまった。だから誰にも会いたくなかったんだ。

「おお? なになに、どうした。よしよし」

 小さい手が背中をポンポン叩く。

 みっともないのはいつものことで赤っ恥も青っ恥も掻き捨て上等だ。滑って白けさせるのも実力不足だからしょうがない。でも、勝手に俺が落ち込んでいるだけなのに、周りに迷惑をかけたりしんどい気持ちにさせるのは嫌だった。嫌なんだけど、出てきちゃうときは止めようもない。ゲロと同じ。

「例のおきゃんは俺にベタ惚れだったのにイケメンと婚約しちゃうし……」

 押されるようにして愚痴があふれ出してきた。

 スワン姫と第一騎士団隊長カイトのことだ。名前を挙げて人に聞かれたらマズいから、ふんわりとモザイク処理をする。

「あー、言ってたな。でも、別に好きとかじゃなかったんでしょ?」

「それはそうなんだけど、イケメンの方が気まずそうにしてて居心地悪かったんだよ。仲いいつもりだったんだけどな……」

「あぁ、うん……流石にどんなに仲良くても一旦は気まずくなりそうだね」

「だから一度故郷に帰ったんだ。戻ったら戻ったで幼なじみと幼なじみがデキてた」

「えーと、確か男二女一の三人組だっけ?」

「そう。俺だけ仲間はずれっていうか、いると迷惑っていうか。クーの方はまだ俺のこと思ってくれてるみたいで嬉しかったんだけど、もう、二人の幸せの邪魔でしかないよな……だから昨日王都に戻ってきたばっかり」

 レイヴンは額を叩くようにしてペチッと目を覆った。

「アイタタター! 確かに生死不明の三年は待つには長いよなぁ」

「もう子供もできてんだって。四ヶ月って言ってた」

「ヒィ! もうやめたげて!」

「俺がレイヴンに愚痴ってた頃、あいつらは二人でいちゃいちゃしてたわけですよ。っていいながら、あんまりそういう想像したくない俺もいるんだよな。子供の頃が楽しすぎて、大人になった自分を認めたくないんだよ」

「辛すぎて言葉が出ないよ! 飲め飲め!」

 背中をバンバン叩かれる。別に吐き気はないのだけど、飲んだものを全部戻してすっきりしたい気分になった。時間を逆戻しにしたいのだ。溺れたみたいに鼻がツンとする。

「辛いのは俺だけで十分だからみんなその分幸せになってくれ……」

「せめて恨めよ……ミーまで泣けてきちゃうじゃないか……ユーも幸せになってよ……」

 二人してぐずぐず泣きながら酒を飲んでいた。途中レイヴンがハープを弾こうとしたら店じまい間近だと店員にやんわり注意をされたので、そのまま店を出た。

 酔って火照った体に夜風は心地よく、ふらふらと近場の公園まで歩いた。カップルが草陰で野営の夜営していたけれど、気がついたところでダルさしかない。もうなんの気力もなく宿まで直帰。

「こんな気分のときに人のダシにされるほど不愉快なことはないね」

 レイヴンが隣で口を曲げながらぶちぶちと文句を言っている。ありがたい。一人でいるよりは遥かに明るい気持ちになる。会えなかったら道の脇で座り込んだまま朝を迎えていたかもしれない。

「レイヴン、宿どこ?」

「まだとってない。泊まってっていい?」

「ああいいよいいよ、ソファあるから使いなよ。俺が死なないように見張ってて」

「あはははは! アルの目、虚ろだぞ。笑えない冗談やめてよね~」

 レイヴンとは道中では何度も同室で過ごしているからこれといって気にすることもないし、お互いに勝手もわかっていた。

 修行を始める三年前の俺なら、中性的なレイヴンの性別が気になったり、仮に女だったらと想像してドキドキしてしまったかもしれない。しかし、ここ一年はびっくりするほど性欲がなかった。病気かもしれないけど、どうでもいい。

 宿に辿り着き、着替える気力もないままにベッドへ倒れ込んだ。体が重い。

「俺はもうダメだ。寝るしかない」

 顔を少し上げると、レイヴンが外套を脱いでいた。

 外套の下はコンパクトな体つきだ。スタンドカラーの白いシャツに、肩紐つきのグレーのショートパンツ、ハイソックスをソックスガーターで吊っている。白い太股は丸みを帯びているけれど、どうにも尻のラインが女の子っぽくはない。相変わらず性別がわからない。どっち? と聞き辛いのは、自分がその質問をされたら傷付くからだ。それにどっちでも構わない人間関係だと思っている。

「相変わらず帽子は外さないんだな……」

「そういうキャラで売ってるんで」

 レイヴンはぎゅっと帽子を下げると、舌を出して笑った。マジで同行中は絶対に帽子を外しておらず、故に毎度椅子に座ったまま寝ていた。

 靴下を脱いで襟首を緩めると、ソファへ横向きに座り足を上げる。産毛もないスベスベした白くて細い足は女の子っぽい気がする。

 横目で観察している視界がぼやけてきた。今日はうまく眠りにつけそうだ。このところは眠れないから浴びるような深酒をしていたが、近くに安心できる人が居てくれれば少しはマシになるかもしれない。

「寝る前に聞いていい?」

 レイヴンの声は少し疲れが滲んでいる。お互いに寝落ち寸前なのだろう。ほぼ行き倒れじゃないか、と思ったら笑えた。

「マジ眠いから手短に」

「えー。んー。じゃあ、一つだけにしとく。アルはミーのことどう思ってるの?」

 声にはそわそわした様子もなく、含みも感じない。相手がこっちをそんな風に思っていないような調子の問いかけだから、気を遣わずに本音を答えて良いような気がする。……という誘導かもしれない。本音を言ったら傷つけてしまうのだろうか。わからない。なんせ性別すらわからない相手だ。

 どうして眠いタイミングに聞くかな。考えるのが難しいじゃないか。頭は覚醒せず、寝落ちに向かってフェードアウトしている。素直に答えるしかできなかった。

「言葉の通じる小動物」

 ほぼ暴言では? 自分で言っといてなんだけど。

「なーんだ。別にミーのことを嫌いになったわけじゃないんだね。よかったよかった。よく厚かましいって言われるからさ~」

 遠くに笑ってる声が聞こえた。俺はもう答える気力もなく眠気に身を委ねた。


 俺的には寝坊だけど、世間的にはまだ朝と昼の狭間。農民らしい時間に起きられなくなり、三年続けた朝早くの剣の稽古をしなくなって一週間以上経つ。

 一足早めに起きていたレイヴンが買ってきた味のはっきりしないパンを水で流し込む。

「今日のミーは吟遊詩人らしくふらふら町中を回って演奏する予定だよ。ユーは?」

 レイヴンはソファに深く座ると足がつかず、楽しそうに足をぶらぶらさせていた。

「家探しするかな。宿暮らしも悪かないけど落ち着かないや。それから図書館に行って、向いてそうな資格を探してみようかと」

「資格? 何の資格? そもそも勇者の資格があるじゃない?」

「勇者は称号だけど資格じゃないよ。しばらくは職探しと婚活。家探して職探して嫁探して希望探す、それが人間の性ッス」

 へらへら笑う俺に、レイヴンは信じられない目を向けてきた。笑うようにつり上げた唇がわなわな震えている。

「待て待て? ユーは勇者だよね?」

「そうだけど、勇者の仕事は終わったから」

「勇者ってそういうもんじゃないだろう? 勇者を押し出して、王宮のポストにつくとか、講演とか剣術指南とかコメンテーターとかタレントとかで食っていけないの? っていうか、金策必要なくない? 異性だって勇者ってだけで勝手に寄ってくるよ?」

 ド正論をまくし立てるレイヴン。わかっちゃいるんだ。胃が重くて残り半分になったパンがダルい。包みに戻す。

「いや……ごめん。気乗りしないんだよ。本当はそれで済まないと思うけど、まあ、いいよって言われちゃったし」

「それは故郷に帰るって決めたからじゃないの? 戻ってきた今の状況だと話は違うと思うんだよね」

「お前の言うことはマジで全部正しい。正しいけど……」

 俺はこめかみを掻く。

 言いよどんだ空白をどう捕らえたか、レイヴンはからかうように口の端をつり上げた。

「もしかして、今更気まずいとか情けないとか思ってるんじゃないの? そんなの一瞬で終わるから気にすることないって」

 意地悪ではない、優しい声だ。心がゆるやかにほぐれる。妙に体や唇が重たくて、頭の中からゆっくり言葉を引っ張り出してくる。

「うん……ありがとうな。心配してくれてんだよな。だけどごめん、そうじゃないんだ。城に行きたくないんだ。俺は勇者が嫌なんだよ。勇者って言っても、やってることは結局……」

 殺し。

 その言葉を口にしたくなかった。小さく首を横に振る。

「このまま普通に静かに過ごしたいんだ。しばらくしゃかりきだったから反動で気が緩んでるんだと思う。何もしないのは性にあわないから何かはしたいんだけど」

 俺の暮らしていた村は、健康なら誰でも朝早くから起きて働くことが普通だ。仕事がない暮らしなんて考えられない。

 魔王討伐の報酬金で生活は困らないけど、働かないままでは取り返しのつかないことになりそうで怖い。酒浸りで体壊して死ぬか自殺の二択しか想像できないくらいに最近は酒に頼っている。楽しく気持ちよく酔えるわけでもないのにそんなことをするのは、偏に俺が楽をして堕落する弱い性質だからだ。

「そっか……燃え尽き症候群ってやつかな。しょうがないか。ユーは頑張ったんだ。ちょっと休んでゆっくり考えるといいさね」

 優しい視線が心に染みて泣きそうになる。そうだ、俺はこんな言葉をかけて欲しかったんだ。

「でもな! ユーには悪いけど、ミーだって困るんだぞ! 誰が勇者かわからなかったら、いくら伝説を物語っても臨場感ないじゃないか~!」

 動物みたいにめいっぱい手足をジタバタさせる。レイヴンは本音を隠さないところが信用できる。出てきた涙やら色んなものが引っ込んで頭が冷静になった。

「とはいえ無理強いはできないな。あ~あ。ミーの渾身のルポも創作扱いかぁ」

 椅子の上に靴をはいたままあぐらをかくレイヴン。頭の後ろで腕を組み、だるそうにため息をついた。罪悪感がチクリと胸を刺す。

 ぴょこんと立ち上がったレイヴンは「んみ~」と伸びをした。小振りなハープもレイヴンが背負うと一荷物で大変そうだ。

「よし。ミーはそろそろ出かけるぞ! レイヴンはしばらくここにいるんだろ?」

「そのつもりだよ。家が決まるまでね」

「今度は何も言わずに消えたりするなよ」

「それは俺の台詞だってば」

 お互いに、聞き返すように目を見合わせてまばたきをする。

「ユーが魔王倒したら戻ってくるって言うから、ミーは宿屋でけっこう長いこと待ってたんだぞ。宿のおかみさんも聞いてるんだからな」

 俺は相当酷いことをしたようだ。しかし、レイヴンは怒っているわけではない。申し訳なさで身をよじりたくなった。

「あ、そうだったのか。ごめん。覚えてないんだ」

「とぼけんな!」

 語調強く言い放つが、それも冗談みたいな一瞬のことだった。心配そうに眉を下げて、大きな瞳で俺の顔をのぞき込んでくる。

「……って言えたらいいんだけど、なんかそんな感じじゃないよね。どゆこと?」

「いやぁ、実は魔王を倒すちょっと前から記憶が飛び飛びなんだよな。もしかすると、他にもなんか取りこぼしあるかも。ごめんな」

 なはは、と笑ってごまかす。

 どうやって魔王城にいったのか。魔王城はどんな外観だったか。魔王や魔物はどんな顔かたちをしていたか。魔王を倒した後にどうやって帰ったのか。そんな色々なことをはっきりとは覚えていないのだ。

「それ笑い事じゃないってば! 変だとは思ったけど、どうりで……」

 心当たりがあるのか、記憶を掘り返すようにレイヴンは右上にそわそわと視線を飛ばした。不安になってくる。

「やっぱり俺、なんかヤバイのかな。変なこと言ったりしてる?」

「変なのはわりといつもなんだけど……」

「いや今そういうふざけた話はしてなくて」

 昔から人を笑わせようとする節はあった。だから、親しみを込めて変なやつだと言われることもしばしばある。だけど今の俺はマジなんだって。そういう誠意が伝わりにくいキャラだけど。

「うん。大丈夫大丈夫。気にしない」

「別に滑っても恥ずかしいわけじゃないからいいけど! もう俺行くから!」

 普通に滑ったら恥ずかしいし変な目で見られたら傷つく。ただ、指摘をして傷つけないようにしよう、という心遣いは汲みたい。ちょっと拗ねる程度なら許されるだろう。

「今日はついてくぞ。一人にしとけない!」

 レイヴンに腕を掴まれた。剣を握る感触よりよっぽどリアルだった。


***


 条件だけで言うなら家はすんなり見つかりそうだ。でも、いざ契約となるとしんどくて決められなかった。後回しにして、先に仕事について考えることにした。

 俺は図書館で資料の背表紙を眺めていた。レイヴンは二つ前の棚で本にのめり込んでしまったらしく、その場で座り込んだまま動かなくなった。集中しているからそっとしておくことにした。

 気になる資格の本を手に取り、軽く開いて目次を見て、戻す。勇者になってから短期間で色々とたたき込まれたが、やってみると座学は抵抗感がなかった。むしろ好きかもしれない。図書館にいると妙に落ち着く。

 王立図書館には今まで出版されたすべての本が揃っているらしいので、蔵書を目当てに僻地から上京してくる人も少なくない。どこを見ても本。勉強している人。本読んでいる人。みんな手元に集中しているから静かで、周りをきょろきょろすることもない。あてどなく捜し物をしている俺以外は。

 俺は一体、何をやりたいのだろうか……。捜し物をしに来たはずだ。片っ端から見ていけば琴線に触れるものがあるだろうと思ったけれど、今の俺は知恵の実を噛んでも味がしない。白に黒で書かれた文字そのもののようにしか心が世界の色を感知できない。感受性が死んでいる……。

 これだけ情報があるのだから、少しでも心躍るものがあるんじゃないか。資格試験に拘ることをやめて、俺は本棚をぶらぶら歩いてひたすら背表紙を眺める。だがしかし、無味、虚無、死、死! いや、死は臭いも温度もするじゃないか。悲鳴だって聞こえる。頭の裏側にこびりついていて、すぐ手に取れる距離にある。本よりも近くに。

 何かに肩がぶつかった。やべっ、と思うことにより、俺の意識は目の前の現実に戻ってきた。

「きゃっ」

 可憐な小さい悲鳴だった。声を聞いただけで見た目まで可愛いってわかる、か細くて甘い声質だ。

 ドサドサドサと重たい音を立てて本が雪崩れ落ちる。山ほどの分厚い本を運んでいたというのか。

「うわっ、ごめんなさい! 大丈夫?」

 びっくりしてけっこう大きな声が出てしまった。そして、自分の声にもびっくりして口を押さえる。視界を遮る棚越しに視線が集まった気がした。

 女の子は尻餅をついていた。

 都会の流行なのか、町中でたまに見かける人形みたいにフリルがたくさんついた個性的な黒いワンピース。ウエストがきゅっと縮まってて、その分スカートがふわふわと広がっていた。パンツが見えそうで見えない、というのも、スカートの下のペチコートのレースがボリュームたっぷりで、何がどうなっているのか構造がわからない。

 一目見たら忘れられない美人だ。特徴的な深紫の髪――人生で一度しか見たことのない、ミステリアスで綺麗な色の髪。

 手を差し伸べようとして戸惑った。もし俺が想像した通りの人物なら、話はややこしくなってしまう。

「はうぅ……こちらこそ、ごめんなさい。本で前がよく見えなくて……」

 冷たい美貌が俺を見上げた。

 近くで見ると青白い肌の透き通るような美しさ。色の濃い部分に知識が煮詰まっていそうな奥深い瞳。細くて真っ直ぐの眉は依る瀬なさげに下がっていた。ふっくらとした形のいい唇には、少し幼い印象の淡いピンクの口紅を塗っている。

 顔だけ見れば知的な美人だけど、甘ったれた喋り方と声のせいでイメージが安定しない。見た目は絶対に綺麗寄りなのに、なぜか可愛いという印象に傾いていく。

 一目惚れとは言わない。しかし、とにもかくにも顔がいい。顔がいいったら顔がいい。俺は面食いなのだ。

「ふぇぇっ!」

 彼女は鼻からフスーッと抜ける間抜けた悲鳴をあげると、まるで水の中みたいにもがきながら後ずさった。おそらく洋服が動きにくい上に運動神経が悪い。格好付かなくてダサい動作だ。その見た目なんだからあえて面白さを追求する必要はないんだぞ。

「ゆゆゆ、ゆうしゃぁ……」

 完全パニクッてて呂律が危うかった。表情もお化けを怖がる子供みたいに情けなくヘタレていて、なんかこう、守ってあげたい系の可愛さだ。

 とはいえ、彼女は人間の姿をしていても魔物側だろう。魔王城で見た子と同一人物みたいだ。俺のこと、勇者って認識しているし。覚えていてくれたんだ、ありがとー。

 俺が今、しなくちゃいけないことは?

 ………………。

 考えたくない。

 今、剣、持ってないし。

 殺すにしたって、可愛い女の子の姿をして泣きそうになってる子を衆人観衆の前で殺すことはできない。後ろからつけて人目のないところで殺した方がいいだろう。

 急に重力が狂ったように体が重く感じた。調子が悪くなってきた。ガクンと膝が折れてしまう。わけもなくそうなった風に見せるのも変なので、俺は落ちて翼を広げた鳥みたいになった本を拾い集めた。

 王国の民族史。民謡集。人間と魔族の歴史。童話全集。似たような題名の本ばかりだ。片手に抱えると相当の量と重みがある。俺が詰んだ一番上の本を顎に挟んで押さえる量って、どういうことだよ。

「……はわわ……あのぉ、その……!」

 真っ青な顔で体中震えている彼女に、俺はシッと小さく息を吐いて人さし指を立てた。怯えきった彼女は喋ったら殺されるとでも言うように脅迫的な速度で自分の口を押さえた。目には涙が浮かんでいた。

「怪我してない?」

 こくこくこく。はりきりすぎな勢い良すぎる頷き。なにこの子、小動物?

 しかし、殺すか殺さないかで悩んでいるくらいなのに、こんなこと聞くのも変だよなぁ。自己矛盾はわかっているのだ。心が二つあるのだからしょうがない。

「ならよかった。これ、どこに持ってく?」

「ぴええっ? どうしてそんなことを?」

 素っ頓狂な声があがる。声が大きい。俺はもう一度しーっとして「図書館だよ」と小さい声で言った。彼女はめいっぱい体を丸めるが、動作の理由はイマイチ不明。恥ずかしいのか?

「本を人質に私を追っかけて、一体どうするつもりなんですか……?」

「ナンパじゃないってば。危ないからいっぺんに持って行こうとしちゃダメだよ。俺みたいにぼーっとしてるヤツとぶつかるでしょ」

 気持ちはわかるが、あまりにも人聞きが悪すぎたから取り繕いながら訂正する。

「はうぅ……ごめんなさい……」

 彼女はしょんと頭を下げた。ゆっくり立ち上がってマイペースにスカートを払い、それから自分の確保した席へと歩き出す。

 席には分厚い紙の束が置いてあった。これなら置き引きにもあうまいよ。目的はよくわからないが勉強家なのだろう。

「ここ、です。あの……ありがとうございました」

 ぺこんと腰を三十度に折って頭を下げる。姿勢が綺麗なので、逆にこっちが恐縮してしまった。

「いいのいいの、ぶつかったのはこっちだし。次からは二三冊くらいにしときな」

 うめき声が帰ってくる。なにか言いたそうに俯きがちな目が俺を見つめてきた。俺だって聞きたいことは山とあるさ。

「その……優しい、んですね……」

 たどたどしい言葉。嘘でもお世辞でもないからこそ、迷いながら口にした。きっと今見ていることが信じられないのだろう。

 俺は別に優しくないぞ。地上の魔物を目視できる限り限り皆殺しにしてきたんだ。やめてくれ。好きになっちゃうだろうが。

「今回は見逃すから遠くに逃げなよ」

 他の人に聞こえないようにささやきかける。顔を近づけると、石けんとお花が入り交じった良い香りがするのは反則だった。これが俺のできる限界の優しさだろう。

 彼女は体を硬直させて、それから肩を押さえてガタガタ震え始める。寒いんじゃなくて怖いのだろう。

 俺は魔王城に乗り込んで、一応、全滅させたはずだ。よく覚えていないけど。

 俺には彼女がお近づきになりたい可愛い女の子に見えている。しかし彼女には俺がどう見えているのだろうか。殺人鬼?

 背中を向けてから、鼻をこするふりをして自分の手首の臭いを嗅いでみた。鉄臭いのは気のせいだとわかっている。それでも口の中にまで塩っぽい血なまぐささを感じてしまった。


***


 ぐずぐずしていたら二三日経ってしまった。ふらふら過ごす日々もなかなか悪くないが、どうにも働かないことに罪悪感がわいてしまう。休養の限界を感じて重い腰を上げた。

「好きで付いてきてるだけだから。ミーのことはあんまり気にしなくていいからね」

 よほど心配なのかレイヴンは今日もついてきた。寂しがりの俺としては構ってもらえて嬉しいばかりだ。一人になりたくない。

「うんにゃ? いっそ売り込みしたらどうだ。勇者の戯曲を求めているかもしれん」

「えっ。王宮に関係するところに行くの? 普通の服で来ちゃったけど大丈夫?」

「へーきへーき。むしろ普通にしてたほうがいいかな」

 レイヴンの口数は減り、不安そうな猫背になった。緊張することはないと言っても曖昧な返事だ。

 王宮から少々離れた場所に趣のある古い建物がある。やや不便で奥まったところにあり、大通りに比べると人の数がぐっと減る。第二騎士団本部、ボロい。

 王都に来てから何回も通った場所で、目的の人物の行動パターンもわかっている。休憩所にいなかったので屋上に来てみたら、ベンチで横になって寝ていた。相変わらずの姿に思わずニヤニヤして顔をのぞき込む。

「よ、ター君。久しぶり」

 フルネームはターミガン。

 白くてぽちゃぽちゃした体型に騎士団のジャケットを羽織っているが、ちょっとオシャレしたクマのぬいぐるみにしか見えない。純血の王国民だとわかる太陽の光のような金髪と爽やかな緑色の瞳は美しい。もう少し機嫌のいい表情をしていれば、女性受けもそこまで悪くないと思うんだけど。

「よお勇者。反復横跳びかい?」

「ん? どゆ意味?」

 ター君はだるそうに体を起こして、日の光がうっとおしっそうに目を細める。

「こっちに挨拶しないで実家に帰って、それからまた戻ってくるなんて反復横跳びじゃないか。俺様への報告、遅すぎなんだけど?」

 声室は高めで口調は尊大だ。皮肉っぽく唇を片方だけつり上げている。

「いや……ごめんな。ター君には会いたかったんだけど、色々考えちゃって」

「お前の頭で考えるより俺様に頼った方が楽に進むぜ。こっちは草の者から情報いれてんだよ。勇者の冒険はスムースに行っただろ? 全部俺様のお陰だ、感謝しろ」

「あー、ター君の管轄だったか。種明かししてくれてありがとう。見えざる手的な? なんかよくわかんなくてスッキリしなかったんだよな。すげえ助かったよ」

「俺様は汗をかかずに労働するのさ」

 どこか自慢げに笑うと、ター君は俺の少し後ろで静かに話を聞いていたレイヴンにぞんざいな視線を遣った。別に軽い扱いをしているのではなくて、常に態度がでかいからそういう印象になるだけだ。

「そっちの小さいのはレイヴンだろ? どうも、初めまして。第二騎士団団長のターミガンだ。その節は勇者が世話になったな」

 ねっ? 話の内容は普通でしょ? ヒヤヒヤしながらレイヴンにアイコンタクトを飛ばす。悪いやつじゃないんだよ。ター君も、レイヴンも。

 あえて余計なことを言わないのは、お互いの波長が無理せず合うことを祈っているからだ。変なやつっていうのは気が合わなければ間にいるやつが何したって無理。

 レイヴンは背中のハープを下ろして抱えるとポロンと鳴らした。そして歌い始めた。

「ハープを奏でる流浪の旅人ミーの名前はレイヴン、御見知りおきを~」

 歌うときのレイヴンは滑らかないい声だ。ハープの音は綺麗に澄んでいて、どこか弾むようなメロディ。芸術の善し悪しはわからないけれど、歌うほどの内容ではないということはわかる。

「マジで歌うんだな。いい音出すじゃん」

 ター君は二三度頷いて笑う。笑うとぬいぐるみのクマちゃんみたいで可愛いんだよね。

「お褒めいただき恐悦至極。ミーは吟遊詩人ですゆえ。こちらこそ楽しい旅でした」

 よかった。両方ともばっちり好印象らしい。響き合う変人のようでホッとした。

 フラットに微笑んでいたレイヴンは、しかし、いきなり表情を怒らせた。

「けど! 文句言っていい? ミーはルポ勇者の詩を書いたんだ。でも勇者に勇者って名乗って貰わないとリアリティ欠如してただの創作になっちゃうんだよね! がっかりなんだよね! なんとかかんとかなりません?」

 美しい歌声とはかけ離れた濁音汚めの怒声。驚くこともなく、ター君は俺に横目を送ってきた。

「ああ、それはこっちも言いたい台詞だ。勇者が勇者を名乗らないから夢見がちなパンピーは兄貴が勇者だって噂し始めて、そりゃもう大変」

「兄貴? 第一騎士団団長が勇者って噂はミーも聞いてるけど……兄貴?」

「そうだよ。二回も言うなよ。兄貴はずっと王都にいたのにンなわけねぇだろ、なぁ?」

 レイヴンは驚いてまじまじとター君の顔を眺めていた。

 第二騎士団は第一騎士団に比べて知名度が圧倒的に低い。国民からは「税金の無駄だから書類管理係は仕分けしろ」とか言われている。だから第二騎士団団長が第一騎士団団長の弟だとか、こんな顔しているとか、お茶の間ニュースの通しか興味を持たないマイナー情報だった。

「おい勇者。なんとかかんとかならんか?」

 大上段の調子が少し薄れ、頼み込むような顔色を伺う言い方になった。彼がそんな姿勢を取るというのは、けっこうマジだということだ。

 罪悪感がすごい。それだけで胃が冷たくズシッとしてきた。体の中では着々とゲロの準備が進んでいる。

「あー……いつかそうしなくちゃいけないってわかってるんだけどさ。五日ほど気分転換したらわかってくるだろうさ」

 ター君の顔にぐっと皺が寄った。

「あん? お前、まだ掛詞してんのか」

「えっ? これ、考えてやってんの? 癖じゃなくて?」

 レイヴンが俺を指さす。ター君はひん曲げた唇と同じ角度くらいに体を斜にした。

「そんな癖のやつがどこにいる。わざとやってるに決まってるだろ」

「最近はすっかり考え癖だけどさ」

 俺は恥ずかしくなって照れ笑いをする。いやはや。最初はわざとやっていたが、今は緊張したらスイッチが入って反射的に言葉をひねり出すようになってしまった。

「そこの勇者が修行のときに『集中できねえ』って言うから『掛詞をつなげてリズムを作ったらどうだ』って俺様が適当に提案したんだよ。それから戦うときはマジで歌って踊ってんだって。それで強いんだから笑っちゃうぜ。ポエムのセンスはゼロなのになぁ」

 ター君の言うとおりだ。俺はいまいちセンスがない、だから滑る。最初は恥ずかしかったけれど、殺すという手前、羞恥心どころか詩の質なんてどうでもよくなってしまった。気を逸らすために続けているのだ。

 ふいっとター君が俺に目を向けた。もしかすると落ち込んだ顔をしていたかもしれない。慌てて取り繕ろうと、ター君は怪訝に眉を寄せる。

「今は戦ってもないのに集中する理由なんかあるか? なに? なんか言いたいけど言えないことでもある? トイレ行く?」

「腹の調子はまあ普通」

 とはいえ、具合はなんとなく良くない。気にしてもらえたことが妙に嬉しい。でも、俺の用事はそっちが先じゃない。

「高位の魔物は姿を変えられるよね。人間に成り済ました魔物を見つけたら、どうすればいいかな」

「あー……待て、今考える」

 空を見上げて顎に手を当てると、ター君は声を落としてぶつぶつ言い始めた。

「最終的には殺すにしても、成り済ました目的が気になる。しかし捕らえたところで尋問できるかもわからない。っていうのも、高位の魔物は各地区の騎士団総出でなんとか討伐できるくらい強いからだ。下手に刺激して王都の中心で暴れられたら洒落にならん」

 ター君は頷いた。そして、厳しい顔をして正面から俺を見つめる。そんな顔をしても印象がクマちゃんなので締まらないけれど。

「殺せ。いけそうなら目的を聞け。基本的には排除だ。相手が元の姿に戻って暴れることだけは絶対に避けろ」

「わかった。以前と同様、あんまり人目につかないように、だな」

「ああ。そこも気をつけろ。民衆を不安にさせるわけにはいかんからな」

 俺が「あーい」と返事したら、ター君に「軽い」と舌打ちされた。

 おずおずとレイヴンが遠慮がちに手をあげる。

「ミーは話を聞いてていいのかい?」

「そいつが勇者だって知ってんだから、実質身内だろ。お前も一応マークされてるからな」

「数奇な運命だにゃぁ……」

 ター君に指さされ、曖昧に笑って手を下げるレイヴン。本当に偶然、旅先でなんとなく出会ったヤツとこんなに長く付き合うことになるとは思わなかった。

「で、アル? その魔物ってのは、数日前に図書館で喋っていた派手な服の紫髪の女か」

 やけに断定的な口調だった。びっくりして心臓が飛び跳ねた。役割から逸脱したことをしたわけだし、後ろめたい気分だ。

「俺、いつから見守られてるの?」

「最初に上京してきたときからずっとだぞ」

「一度も中断なし? なんか怖いんだけど」

「そんなもんよ。草の者があちこちうろうろしてっからな。アルが言うように人間に化けた魔物がいないかも調査してるし、普通に人間が反乱起こす可能性もある。何事もともかく調べるのが俺様達の仕事だ。まあ、妖精さんがチョロチョロしてるとでも思っとけ」

 カッカッカと笑い飛ばし、ター君は居住まいを正す。気の引き締まる真顔だった。

「女の名前はカナリー。ほとんど勇者と同時期に王都に来て、家を借りている。姉二人と住み、姉は仕事と家事を交代でやっている。カナリー自身は毎日定時に図書館と家の往復。読んでいる本は、人類史文化史伝承童謡、文化人類学系のざっくり文系っぽい内容だな。姉の評判は非常に良い。カナリーはたまにキョドるそうだ」

 彼の仕事は完璧に近いのだろう。しかし、どうにもストーカーみたいに感じてしまう。

「……うん。ありがとう。すごくよくわかったけど……俺はどんな風に報告されてるか気になる」

「この間出会いカフェに行ったらしいな?」

「怖い怖い怖い! その後、俺がレイヴンに何を愚痴ったかは聞いてるか?」

「それは知らん」

 ホッとして俺は胸をなで下ろした。レイヴンと同室なのは伝わっているだろうが、部屋の中のプライベートは保たれていた。

 レイヴンが両手の人さし指で俺を示す。

「『昔は強いだけでモテたのに魔王がいないとなると経済力かよ。とはいえ、筋肉が好きって女はなんか体目的みたいで嫌だなぁ。男が巨乳好きをアピったらヒかれるだろ。筋肉は触っていい? って聞かれるけど、おっぱいは触っていい? ってそんなカジュアルに口に出せないのは不公平じゃねぇ? つまり俺は謹んで欲しいわけよ』って言ってたね」

「はぁん? 勇者を名乗るだけで入れ食いだろうに」

「『勇者とかそういうブランドに頼らずに自分自信を見て欲しい』だそうですぜ」

「ケッ。贅沢言うなよ。大したきっかけもなく人柄なんか見てもらえるかっての。おい、夢見がちか、それとも自信家か?」

 ター君になぜか非難染みた目を向けられるが、何が悪いのかはちっともわからない。

「でもさ、二人だって嫌じゃない? 見た目とか資産とか安定職とかで判断されるの」

「判断材料じゃなくて条件だろ、それは。条件を越えないと中身まで辿り着かない」

「世知辛い……」

「そうは言うけどな、カナリーが人間の格好してなかったら人里に忍び込めないし、人間の格好だからお前さんもすぐには殺さなかっただろう」

 ター君が言っている意味と一致するかわからないけれど、俺がすぐに彼女を殺さなかったのは――殺せなかったのは見た目のせいだった。もう言い訳も反論もできない。

 結論として、俺は、探して殺すしかない。いや、住居が割れているから探す必要もないかもしれない。仕事はまだ終わっていなかったのだ。

「……帰るわ」

 まただ。気持ちが暗くなると、体が急に重くなってそのまましゃがみ込みたくなる。俺は足を踏ん張りながら前に進む。

「待てや」

 ター君の声に振り返る。

「なあ、夜寝れてるか? 飯は食えてる?」

 なんでそんなこと聞くんだよ。寝られていない。しばしば戦いを思い出して飛び起きてしまう。寝付きも悪い。夢なんか関係なく目も覚める。もし朝に早く起きてしまっても、再び眠りにつくことは容易くない。飯はおいしいと感じないので面倒になってきた。

 口を開くのが億劫だった。喉がべったりと張り付いて開かない。

 代わりにレイヴンが答えた。

「夜中に飛び起きるんだよね。ご飯もあんまり食べないし。寝てる時間は不規則だし。お酒の量は増えてるし。不意に暗いこと言い出すし。心配だからついてきてるミーです」

「おう、ありがとな」

 自分のことのようにター君は言った。それから何気なさを装って俺と視線を合わせる。

「王宮の医者を紹介しようか? なに、眠れる薬を処方して貰うだけだ。ついでに愚痴も聞いてもらえるからオススメしとくぜ」

「医者なんて……そんな、大したことじゃないって」

「そうかい? まあ、しんどいときはいつでも言えよ。医者って言ってもお喋りの相手って程度だから。身構えず気軽にな」

 そう言われると一度くらいは、という気持ちになる。疲れていても気持ちよく眠れないのは辛い。でも、医者は嫌いだ。薬を飲むのも、注射も、病院の匂いも嫌だ。もうちょっと先でもいいかな……。

「サンキュ。じゃ……」

 片手を上げて振る。振り返してなんかもらえないけれど、俺のことをよく見てくれていると思うだけで少し気持ちが軽くなった。


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