近頃、肩が重くて頭痛も酷い。お風呂に入ってもマッサージに行ってもよくならず、薬に頼ってみたが効果なし。デスクワークのせいかと考えたけれど、大学受験のときはこんなことはなかった。年齢のせいかと思うと情けない。
手がしびれてきてしまったので、パソコンの入ったショルダーバックを反対側の肩に掛けなおす。ヒールを履いたつま先も冷たい。女子力を下げてでも楽な靴に買い換えたい。ヒールの音がやけにガコガコ響いて聞こえるのは地下道のせいか、それとも、イライラしているせいか。 首を傾げるようにして少しでもこわばった筋肉を伸ばそうとする。 目が合った。おじさん臭い動作をとっていた自分が不意に恥ずかしくなった。 彼は、やけに冷めた目でじっと私を見つめていた。心の奥底まで透かして見るような瞳の印象だけが飛び込んできて、その後に、全体像が把握できた。 黒いパーカーにジーンズ。普通の、特徴がない格好。大きな黒いキャリーバックに、スケッチブックからちぎった画用紙が貼り付けられている。行書のような字が『似顔絵描いています』とだけ言っていた。大型のスケッチブックを持って背中を壁に預けている。案外前髪が長い。そして、意外なことに地味だが醤油系の整った顔立ちをしていた。高校生か、大学生か。年下には違いない。 彼は軽く頭を下げた。私も下げ返した。周囲に人はなく、なんとも気まずい空気が流れる。 このまま通り過ぎてしまおうか。とは思ったが、彼はチラチラとこちらを前髪から覗き見てきて、妙に気になってしまった。 「描いてくれる?」 近づいたのは、単純に見た目が好みだから。小汚い格好をしていたら気持ち悪くて逃げてしまうだろう。 「はあ……どうぞ」 彼は鉛筆のお尻で壁際に置いたキャンプ用の小さな三脚椅子を示す。客商売のわりにそっけない言い方だ。愛想の悪さに肩透かしを食らった。早くも関わってしまったことに後悔を覚える。 「……肩とか、こりませんか」 少し経ってから、彼はぼそぼそとした声で居心地悪そうに話しかけてきた。きっと人と接するのが苦手なのだろう。 「まあね。職業柄しょうがないわね。SEなの、私」 さっきの仕草を見て推測したのだ。こんな話からはじめるなんて、本当に会話が下手だ。可愛くすら思えてくる。 「君は?」 「……僕のことは、別に……」 困ったように手が止まっていた。じっとこちらを見ていた視線もそれる。適当に嘘を吐くことができない性格のようだ。可愛いじゃないか。 「それより、その……うなされたりとか……」 「ん?」 何が言いたいのだろう。首をかしげると、彼はびくついたように早口で言葉を上塗りした。 「あの、ええと。夜にうさなれたり、しませんか」 「ええっ? わかる? そのせいで寝不足なの」 ここのところ金縛りにあったり、内容は忘れてしまうけど嫌な夢を見て飛び起きることがある。おかげで寝起きはすっきりしないし、肌はボロボロ。散々だ。 「色々やってみたのよー。ルームランプ変えてみたり、アロマ焚いてみたり。でも、どれも全然効果なくって。嫌になっちゃう」 「はぁ……」 呆然とした様子で彼は頷いた。価値観の違いに圧倒されているのか、興味がなさ過ぎて困惑しているのか。 「ねえ、何かいい方法知らない?」 「えっ」 びくりと跳ねる彼。また手が止まって、答えを探すようにスケッチブックへと目を落とした。いじけるように鉛筆をこそこそ動かす。 「……あ、その、きっともう、大丈夫ですよ」 「どういうこと?」 これには返事がなかった。背中を丸めて顔を隠し、集中しているから聞こえない、というようなフリをしている。ちょっとイラつく。けれど、ここは大人としての寛大さを見せないといけない。 「ねえ、君、人付き合い苦手だよね。でも、勇気を出して路上に立っているのは偉いと思うの。がんばってね」 なるべく優しく声をかける。これでも返事がなければクソガキ決定。返事が帰ってくるまで遅いから黙殺されたかと思ったけれど、彼は小さく震えて、ぐすっと鼻をすすった。泣いている。 「……あ、ありがとう……ございます……」 とてもいいことをした気分になった。 「絵描き目指してるの?」 「いいえ。霊媒師です」 彼は袖口で涙をぬぐった。私は彼が言ったことを頭の中で反芻した。意味がわからない。 「できました」 赤くなった鼻のまま顔を上げて、彼はスケッチブックを私に向けた。 私は悲鳴を上げてしまった。後ずさろうとして、椅子のバランスを崩して落ちてしまった。お尻が痛い。 「だ、大丈夫ですか?」 彼は顔を青くして、しかし手を伸ばすなどせず、ただオロオロとしていた。しかしそんなことを気にするほどゆとりはなかった。 スケッチブックに描かれていたのは私の顔ではない。写実的なタッチで描かれた繊細なイラストは、見たこともない女の顔だった。長い髪を振り下ろし、瞼は重たく腫れ、こちらを恨めしいような、妬ましいような、鬼気迫る形相で睨んでいる。 「びっくりさせてごめんなさい。この人、あなたについている生霊です。たぶん、嫉妬です。心当たりありませんか?」 「知らないわよそんな女! びっくりさせようとしてるわけ!?」 「ち、違います違います。僕、そんなつもりじゃなくて」 「ふざけないで!」 私は怒鳴って立ち上がった。殴られたように彼は体を竦めて身を固める。そんな反応をされると怒りは加速してしまう。私は早足で駅へと向かった。 家に帰ってもからかわれた怒りは消えなかった。しかし、その夜はとてもよく眠れた。ストレッチをしたら肩こりも気にならなくなり、翌日の目覚めは好調。 もしかして、本当に生霊がついていたのかもしれない。そうなると、あの女が誰だったのか、彼は本当に霊能力があったのか、気になってしょうがない。お詫びとお礼を言いたい。実際のところはどうなのか、聞きたい。 申し訳ない気持ちと好奇心を抱えて、私は何度も同じ道を通った。しかし、彼が再び現れることはなかった。