「テネブリズムの子供たち」試し読み

 


 ベランダに穏やかな春の陽光が差し込んでいる。
 イーゼルに立てたキャンバスには、水彩の薄い青で、空とも海ともつかないゆるやかな波打った空間が描かれていた。小さい天使が左上から降りてくる。落ちているのかもしれない。
「きょーくん。また、みーちゃんが、いなくなっちゃたの」
 妻の日向は、鼻にかかった舌足らずな口調で寂しげに言う。抑揚が一本調子でリズムの狂った彼女の言葉は、日ごろ耳にする日本語の感覚からは逸脱している。聞き慣れなければ意味を成さない音に聞こえるかもしれない。
 一緒に出かけて選んであげた白のワンピースを汚さないように、日向は生成りのエプロンをかけていた。しかしエプロンすらキャンバスの一部というように青色の絵の具と水でぐちゃぐちゃに汚れている。きっとワンピースにも染みてしまっているだろう。防水のエプロンを買うか、それとも、また買いに行くのを楽しみにするか。僕は毎回、後者を選ぶ。
「どこいっちゃったんだろ?」
 こっちを見ずに首を傾げる日向。寝癖で跳ねた肩下のセミロングは、色素が薄いので染めなくても明るい茶色だ。ふわふわの細い毛先までつやつやと光を反射する。手入れが行き届いているのだ。僕の自慢の一つである。
「ヒナのこと、きらいなのかなあ……」
 ぽつり。と、鼻で潰れた悲しい言葉。胸がギシリと痛んだ。
「嫌いなわけあるか」
 僕は両手を背中に隠した。


【2】

 夕食後、母親から呼ばれて玄関先に行ったら、見知らぬ大人がいた。父親と比べて体の小さい普通のおじさんだった。小学校の同級生の父親よりは若々しい印象で、おじさんのくせにピンクのシャツを着ているから変だった。
「隣に引っ越してきた蒼井です。よろしくね」
 物腰は柔らかい。少しだけ腰を曲げて視線を合わせると、顔をにっこりと優しげにゆがめてきた。なんか気持ち悪い。このおじさんは、あまり好きになれないと直感的に思った。彼の笑顔は水のりみたいにべたついていた。
 怖くなって母親を視線でチラと見る。母親はにこやかに僕を見ていたが、目が合うと、途端に双眸を鋭くした。胃の中がひんやりとする心地だった。
「羽須美京一です。よろしくお願いします」
 僕はきちんと笑顔を作って、学校で習うとおりに頭を下げて挨拶をした。母親に恥をかかせるわけにはいかなかった。
「京一君か。しっかりしているね」
「そんなことありませんよ」
 母親は嬉しそうに謙遜した。うまくいった、と、僕は少しホッとした。
「何年生かな?」
「三年生です」
「じゃあ、日向より二つお兄さんなのかぁ。日向は、今年から一年生なんだよね」
 おじさんは、軽く右下へと顔を向けた。
 小さな女の子が、恥ずかしそうに父親の足を盾にして隠れていた。存在に気付かなかった僕は少し驚いて、目を見開いた。
 かくれんぼをしているように、女の子の顔半分がちょろっとこちらを覗く。薄い色の肩くらいの髪の毛、大きくて丸い目。ふっくらしたほっぺたがやけに赤かった。一息ほどの間も持たず、何もいわずにひゅっと顔を引っ込めて、父親の足に顔を埋める。
 玄関先に笑いが満ちた。僕も笑っていた。リスみたいで、なんだかおかしかった。
「すみませんね。はにかみやで、人見知りが直らなくて」
 困ったようにおじさんは眉を下げて笑っていた。だけど、可愛くてしょうがない、頼られて嬉しいと、目が言っていた。
 また、日向がひょっこり顔を出した。
「ひなた」
 舌足らずで鼻にかかった小さい声で日向は言った。また引っ込んだ。
 さよならをしてリビングに戻ると、母親は僕と視線を合わせて、厳しい笑顔を向けた。
「京一、日向ちゃんとはあんまり仲良くしちゃダメよ」
「え」
 あんなにニコニコしながら話していたのに。悪い子じゃなさそうなのに。どうして、裏でこんなことを言うのだろうか。母親の変わり身はいつものことだけど、毎回、不思議だし、嫌で、不安な気持ちになる。
 戸惑いついでに、拒否したくなった。けれど、先に窺わなくてはいけない。すでに僕はビクつくだけの子供なのだ。
「なんで?」
「お母さんがいないんですって。悪い人じゃなさそうだけど、京一にはそういうお家の人となるべく付き合わないで欲しいの」
 母親が言うなら仕方がないのだ。僕はいい子なのである。素直に従うほかない。
「わかった」
 僕が頷くと、母親はいつも嬉しそうに頷き返して頭を撫でてくれる。
 でも、お母さんがいないって、気楽かもしれない。だけど、僕に『何か』をしてくれる人がいなくなってしまう。お母さん以外、僕のことを心の底から想ってくれないような気もする。
 日向は母がいなくても、父親が心の底から日向のことを想っているように見えた。母親とどう違うのかはわからないけれど、なんだか、どれをとっても僕とは違う気がする。それじゃあ、きっと仲良くなれないんだ。母親はいつもそう言う。
 それから少し経って、父親が帰ってきた。ここのところ帰りが遅い。医者はそういうものだろう。
 二階にある自分の部屋から階段まで出て行って、両親の会話を遠く盗み聞く。
 母親は、芸術家が隣に引っ越してきた、子供は知恵遅れみたいだ、みたいに色々言っていた。父親は面倒くさげに受け流している。なんでそういう態度なの、と、母親が少し声を張り上げる。喧嘩になった。
 隣の家に聞こえなきゃいいけれど、と僕は部屋に戻った。

 母親が言う通りに、僕はあんまり日向と仲良くしないでおいた。日向は自分から擦り寄ってくるような人懐こさはなかった。父親もなかなか姿を見ないし、家政婦さんがゴミ当番や回覧板などの細かいことをやっていた。何かが僕らと違うことは、そこはかとなく感じていた。
「あ」
 日向はあまり小学校にも来ていないようだった。だけど、その日はランドセルを背負って先を歩いていたので、見つけたときはうっかり声を溢してしまった。
「どうかした?」
 クラスメイトが尋ねる。
「隣の家の子がいたんだ」
「ふーん」
 質問したくせに微塵も興味を持たず聞き流した。だけど他のやつが話を繋げた。
「妹のクラスに蒼井ってのがいるんだけど、それかな」
「あ、それそれ」
「変なやつらしい。『馬鹿だから話しちゃダメって友達が言ってるから、私も話さない』だってさ」
「なんだよ、それ」
 興味を持たなかったやつが、憤ったように言う。
「俺もよくないって言ったんだけどさ、妹は『自分がいじめられるから嫌』って」
「先生にチクるか」
「妹がいじめられるだろ。やめろよ」
「俺が言うよ! そうすればお前の妹とか関係ないじゃん」
 そいつはいきなり正義感に燃えていた。単純なやつだ。だけどいいやつだ。
 僕はどうすれば一番いいのかを考えて黙っていた。日向が変わっているのは事実、自分と違う種類のものを受け入れがたいのもまた事実。
 しかし、それから日向を見かける回数が増えた。同級生とも仲良くなれたらしく、数人とつるんでいるところを学校でも見かけるようになった。友達は先生や親にとても褒められて、ずいぶんと自慢げだった。その年の作文に彼は武勇伝として朗々と書いた。

 友人と別れたあとの、家の近く。一人と一人が距離をとって歩いていた。
 前方を歩く日向が何もないところで躓いてすっ転んだ。溢したジュースみたいに地面へ大の字になる女の子を放って追い抜いていくわけにもいかず、僕はしぶしぶ声をかけることにした。
「大丈夫?」
 頭から突っ込むような派手な転倒だった。桃色のランドセルの中身をぶちまけて、頭の上にばら撒きながら、日向はぴくりとも動かない。黄色のヘルメットがなかったら頭を怪我していたかもしれない。
 恐々と、触れずにもう一度、声をかける。
「だ、大丈夫……?」
「いたい」
 泣きそうな鼻声だった。動かないままなので声は潰れていた。僕はまず、散らばったランドセルの中身を一掬いにまとめて脇に置いて、どうすればいいかわからなかったから、日向の手を掴んで引っ張った。日向はゆっくり膝を曲げて起きあがる。
 泣きそう、は、訂正だ。日向はボロ泣きしていた。初めて会ったときみたいに頬が真っ赤になって、目元から耳まで茹で蛸みたいにして、泣いていた。鼻水まで垂れ始めた。それだけど、唇をへの字に結び、息を引きつらせて、必死で痛いのをこらえていた。
「どこか怪我した?」
「ひざ。と。て。うった。いたい。いたい」
 声帯がキュッと締まっていた。むき出しの華奢な膝小僧は切れて、ぷつぷつと丸い血が膨らんでくる。
 女の子が泣くときと、血が出ているときは、なんだって動揺する。その二つがいっぺんにやってきたものだから、僕はとても慌ててしまった。
「ティッシュ。ティッシュ」
 ともかく血を止めなくてはいけない。僕はランドセルのポケットからティッシュを出して、彼女の膝に当てた。ティッシュはじわじわ血を吸って重たく小さくなる。日向に手元の新しいティッシュを全部渡し、僕は薄いフィルムだけになったティッシュケースに血のついたティシュを入れて潰した。
 日向はぼたぼた涙と鼻水をたらしながら膝を押さえていた。僕は日向にハンカチを差し出したけれど、受け取ってもらえない。仕方ないので、こわごわとハンカチを当てて拭いてやった。
「いたいー!」
 あんなに我慢していたのに、日向は急にだだっこのように声を張り上げて、わっと涙を流した。
 どうしよう。家はもうすぐそこだから、日向の家の家政婦さんを呼んでくるべきか。
「おにいちゃん、いたいよーっ」
 日向は僕のTシャツの裾を引っ張った。
 おにいちゃん? 僕? ……きょうだいに憧れる一人っ子の性だろうか、悪い気はしなかった。ずっと気まずくて困っていたのに、まるで細かい雪が溶けるように、日向に親しみを持った。僕がしっかりして、日向を守ってあげないと、という優越にも似た心地のいい責任感。だって日向は年下の女の子で、弱いから。きっと作文を書いた友人も、先生にチクることで似たような気持ちになったのだろう。
「痛いね。可哀想だね」
「うん。いたい。いたい」
 けっこう元気よく首を縦へ振る日向。痛いかもしれないけれど、大丈夫そうだ。なだめて家まで連れて行った方がいいだろう。
「歩ける?」
「あるく」
 鼻水でつぶれた声。しかし、しっかり歩く意思はうかがえた。
「偉いぞ。じゃあ、行こうか」
 様子を見ながら先に足を踏み出す。細かなコミュニケーションがチンプンカンプンというわけではないらしく、日向も続いて歩き出す。ただ、膝を抑えたままだし、歩幅は小さいので、ペースをあわせる。
「転ばないでね」
「うん。ころばない」
「そうだ。鞄、持つよ」
「いらない」
 涙は止まっていたけれど、まだ顔は赤く鼻が詰まっていた。水っ洟が垂れてきていたので、また拭いてあげる。
 日向は足を止める。
「おにいちゃん、て、つないで」
 繋げるほうの手は拳を握って下がったままだ。自分から手を出すこともない。だけど、視線だけは真っ直ぐ僕を見上げてきた。
「さみしいよ」
 なんで、と、聞く前に答えられた。僕は口先まで飛び出していた言葉を飲み込んだ。
 脈絡はなかった。よくわからなかった。それなのに、なんとなく、共感した。あんなに違うと思っていたのに、どうしてか、わかってしまった。
「これでいい?」
 日向のあいている手を取る。小さくて、ふわふわして、薄い皮の下に細い骨があって、暖かい手。
「ありがとう」
 気休めになったのか、どこかホッとしたように、日向は頬を緩めた。
 僕は急に恥ずかしくなった。いきなり顔が熱くなってきて、足元に視線を落とす。気を紛らわす会話をしよう。
「友達はできた?」
 ちょっとの間の、浮かない沈黙。首を振る日向。
「……んーん。みんなうそつき。こわい」
「嘘つき?」
「ほんとは、おもってないこと、いう」
 日向の唇がツンととがっていた。怒っているわけではなさそうだ。眉が下がっている。
 僕は言葉を探してしまった。何を言いたいかもわからない。正直なところ、僕は日向を馬鹿だと思っていた。母親もそれに近いことを言っていた。けれど、本当にそうなのか、疑問になった。
 日向の周りに集まった同級生の女の子は、いい子のフリをして、日向と仲良くしているのだろう。その腹の内では彼女のことを気に食わないのに、ニコニコして仲間にいれてあげないと先生に怒られて不利になってしまう。だから、仲良くしてあげている。僕もそっち側だ。日向の同級生の女の子の考えが、よおくわかる。
「だから、ヒナもうそつくの」
 一呼吸の間は、もしかすると、僕の反応を待っていたのかもしれない。
 日向はつまらなそうなくらい顔色がない。目にも表情が出てこない。だから、感情を殺したように、暗く見える。何を考えているかわからない。
 自分は何もしていない。いいことも、悪いこともしていない。だけど、罪悪感とか、哀れみのようなものが、ちくりと心をつついてくる。
「日向ちゃんはいい子だね」
 彼女を褒めて自分の気持ちを帳消しにするつもりだった。それなのに、日向ははにかんだ。笑いきれていなかった。
「ありがとう。おにいちゃん」
 可愛い。そんな調子でお兄ちゃんと呼ばれて、心がムズついた。僕はいままで誰ともさほどかわらない普通の人間だったはずなのに、途端に酷い悪人のような気がしてしまった。
「もうだいじょうぶ。ばいばい」
 本当に、家の近くだった。日向は膝を抑えてひょこひょこと家に入っていった。
 僕も家に帰った。母親が「おかえり」と出迎えてくれた。特別に報告することもなかったし、日向のことは報告するのがよくなさそうだったので、黙っておいた。

*****

 彼女が芸術系の学校をゆっくり卒業した頃、僕は社会人として少し経験を積んでいた。ので、同棲を始める前にした約束通りに結婚をすることになった。
 けれど、親同士の挨拶の席を設けて、そんなものをゴール地点に据えていたことを心底から馬鹿馬鹿しく思ってしまった。
 子供に関心のない父親の上辺の会話。空白の母親の席。僕のほうの母親の席にはよく知らない女が座ってヘラヘラしていた。空白と変わらない。
 本当に似た者同士だなぁ。妙な安心感に薄ら寒い愛想笑いがこぼれてしまった。声を上げて笑いたいくらいおかしかった。逃げようとしても親はついて回る。まるで運命のように。

(試し読み ここまで)

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10年くらい前に書いた短編です。

2022/4/3配信。

連絡先や名前が以前のもののままになっています。

とりあえず今後はここを基地にしようと思っているので、気が向いたら差し替えます。