試し読み
プロローグ 女神の呪い
照明を絞った薄暗く狭い室内。カウンターの上につるされたグラス。壁には様々な品種のボトルがずらりと並んでいる。カウンターにはオールバックに撫で上げた無口なマスターが一人。
小さな丸テーブルを、身綺麗な青年三人が囲んでいた。白いシャツに黒いスラックス、無印の青いストラ――聖職者が肩からかけるアレのことだ――揃いも揃って同じ格好をしていた。
彼らは女神ネイジュを奉る聖職務者の見習いである。所属機関名はブランシュ学院。つまるところ学生だ。
「俺は三十」
「マジかよ、俺は七……まあいいけど。気に入った子と続いてるし!」
聖職者らしからぬ砕けた若者言葉で、二人は手元のメモを見せあう。
書かれているのは電話番号と女性の名前。もちろんファンタジーの世界であるからして、携帯電話など便利なものは存在しないし、固定電話のある場所は非常に少ない。近隣の店や勤め先の番号を書くのが都会っこの間で流行しているだけである。卒業までの三年間、酒場を片っ端から回って集めた簡易名刺は彼らの『モテ』の成績表だ。
「――なぁ、シエルは? 逆ナンの連絡先。何件だよ」
「ふぅん?」
話を聞いていないような、気の抜けた相槌――もしくは余裕綽々の聞き流し。
シエルと呼ばれた青年は涼しい顔でグラスを傾けていた。
はじめて彼を見た人はまず、その涼やかな切れ長の瞳に目が行くだろう。ストラと同じ深いブルーは知的な輝きに満ちている。すっと通った鼻梁、長い睫、繊細ながらも男性らしい細面の輪郭。サラサラとした金髪は、もはや作り物じみていると言っていい。出来すぎた造形だった。
シエルは唇からゆっくりとグラスを離し、少しだけ水位の下がった酒の色を眩しそうに眺める。青から白にグラデーションしたカクテル。一杯、普通の居酒屋の大ジョッキを三杯飲める価格。二回に一回は初めて会った年上の女性に奢って貰える。
「僕は五十で数えるのを諦めたよ」
「ッカー。まったくいやんなっちゃうねぇ」
連絡先七枚の彼が額を叩いた。
小首を傾げ、シエルはここでようやく彼らを視界へ入れる。その微笑みには得意げを通り越して小馬鹿にしたような嫌味なものが含まれていた。少しばかり眉が苦み走るのだ。
「我が友よ……そうガツガツするから獲物が逃げていくんだ。僕らはブランシュ教の神父――高学歴、高収入の代名詞なんだよ。素知らぬ顔であっちから寄ってくるのを待つ方が得策ってものさ」
ブランシュ学院の入学資格は信仰のみである。採用の枠は少ないが、受験生は多く、難関だ。生徒は在学中に僧侶の資格を取得し、卒業式で信仰している女神ネイジュと契約をする。卒業後は各教会に派遣され、一番下の位から順に昇進する。司祭選挙や派閥争いなどもある白い巨塔だ。ちなみに、僧侶は祝福を与える祈祷の有資格者を、神父は教会支給のストラを身につけている者を指す。司祭は役職だ。もちろん女子も入学可能だ。男子とは資格や役職が異なり、多くは信仰さえあれば誰でもすぐに就職できるシスターに就職する。
彼らは何故それほどまでに厳しい社会へ足を踏み入れたか? 答えはいたってシンプルだ――地位! 名声! 金! 女! 成功者のみに吸える甘い蜜というのは、案外バリエーションが少ないものである。
「怖いよな。一番人畜無害な顔をしたヤツが一番クズなんだもん」
七枚の彼は、からかうような身振り手振りを交えながら肩を竦める。しかしシエルは気を悪くする素振りもなく、ヘラヘラと笑いながらゆったりと手を振った。
「おいおい。いくら僕が成績トップで先生からの評価がよくて女にモテるからって、僻むにもほどがあるよ? 明日から赴任地がバラバラなんだから少しくらいは仲良くしておいてもいいじゃないか」
「俺らが仲良く? はは。三人掛かりで女の子を暗いところに連れ込んでよろしくするくらいしか想像できねぇわ」
シエルと七枚の彼はおかしそうに笑った。高笑いを口元に添えた手で押し殺すような、なんとも悪事めいた笑い方である。
「それはネイジュ様に叱られるな。按手の日――明日までは清らかな童貞でいなくてはいけないのだからね」
酒は学院へ入学する年に解禁。一般人は結婚も解禁されるのだが、ブランシュ教における僧侶の免許は童貞男児にしか認められない。逆に女神との契約後は職位に応じて重婚可能人数の枠が増えていく。経典に書かれた大司祭は百歳まで生き、妻が十五人、子供は三十五人おり、妻と子供が各地五十ある教会の礎を築いたといわれている。故に、彼らは大司祭を目指す――。
シエルは舐めるようにグラスを傾けた。実のところあまり酒は強くない上に、カクテルはアルコール濃度が高い。それでも飲む理由はナンパに役立つ他ないのだ。酒が解禁された三年前、彼らは吐くほど飲んで互いに介抱しあった仲である。そのお陰か、程よい酔いにとどめる術をなんとか会得した。
「卒業したら何人の女が泣かされることか……罪だねえ。おお、我らがネイジュ様よ、迷える子羊を救いたまえ」
じっと耳を傾けていた三十枚の彼が口を開く。両の指を組み額の位置で祈るブランシュ教お決まりの祈祷だ。それからタバコに火をつけた。喫煙は禁止されていない。
シエルの薄い唇の端が意地悪くゆがんだ。フ、とかすかに息が漏れる。
「僕はいずれ大司祭になる男だ。そんなチャチなことをするわけがないじゃないか」
「うわ。出ました、大風呂敷」
「女神様が見てるぞ、早く畳んどけ」
仲間内二人にとってはいつものことだ。笑って囃し立てる。
「巷では魔王が復活したと聞くけれど、なんともタイミングの悪い話だよ。だって僕に倒されてしまうのだからね。なんせ僕は完璧なんだ。成績優秀、眉目秀麗、才気煥発。もちろんこんな僕にだってチャームポイントはあるよ――性格が悪いところ」
胸に手を当てて陶酔しながらシエルはほほ笑む。性格の悪さを自覚しているだけマシなのか、はたまたタチが悪いのか。彼が自称している通りの評価を受けていることも事実である――チャームポイントは仲間内と勘のいい一部しか気が付いていないけれど。
「それで、魔王討伐の旅の途中に行きずりの女を何人引っかけるつもりだよ。百人切りとかありきたりのこと言わないよな?」
「いやだな、そんな品性の欠けることを言わないでおくれよ。そうだね。魔王を倒す旅の仲間の美女と心を通わせた上でようやく男になる……そんな堅実な未来が見えるよ。ここまでストイックに修業をこなす僕があちこちで女性を泣かせるなんて不誠実なことをするわけないじゃないか」
ストイックに修行をしていることは事実だが、薄ら寒いロマンチックなエピソードも、誠実そうな言葉も、すべて裏腹の冗談だ。現に連れの二人は大きな声を出さないように必死で堪えながら笑っている。大衆酒場ならバンバンと手を叩いてから腹を抱えてひっくり返るところだろう。もちろん魔王討伐なんか行く気はない。教会内部での約束された出世しか眼中にないのだ。
仲間内にウケて満足したシエルはグラスに口をつける――。
《言いましたね?》
――そのとき、頭に女性の声が響いた。
上下左右、すべてが白く靄掛かって奥行きの掴めない空間だった。バーからの唐突な移動――いや、空間移転か――さもなくば幻術か――。ガラスのように冷ややかな瞳を研ぎ澄ませて身構えるシエルの正面が、瞬間的にパッと発光をした。
目を閉じる間もなく、彼女は玉座へと悠々腰掛けていた。
「女神はすべてを見ていますよ。少年シエル――まったく嘆かわしいことです」
凍り付いた滝のような艶やかで厚みのある真っ直ぐな長い白髪。血管が透けて見えそうな白い肌。大粒のアーモンド型で、少しばかり目尻のつり上がった紫色の瞳。唇は小さくぷくりと肉厚でサクランボに似ている。華奢な肩からほっそりとした鎖骨、そして胸元までが大胆に開いた青いドレスには、繊細な銀色の刺繍がされている。マーメイドのような裾広がりのドレスにはスカート裾の中央から深いスリットが入り、すらりと組んだ彼女の細く白い足がむき出しになっている。細いだけではなく、ふくらはぎや太ももはいかにも柔らかそうなむっちりとした肉感の曲線を描いていた。
「もしかして……あなたはネイジュ様でしょうか……?」
女神様って本当にいるのかよ……シエルは驚愕した。
経典を読んだ。研究をした。修行をした。僧侶としての徳を積み、いち早く資格を取得し、一番の成績をとり続けた。しかし、神の存在をまったく信じていなかった。
そうでありながらも、女神である証明をしろ、なんて足掻く気分にはなれなかった。魔術的な空間なのに外法の気配は一切ない。神聖な空気に包まれているということは、即ち女神ネイジュの御領なのである。
「ええ、間違いなく私こそがブランシュ教の女神ネイジュ。この空間に呼ばれると慌ててああだこうだと喚く者ばかりです。あなたの落ち着きや判断力は修行のたまものですね」
ベタ褒めされている……! ここは単純に喜んだ。胸に手を当てて跪き、頭を垂れる。
「恐悦至極に存じます」
「怠け者というわけでも、おバカさんというわけでもないんです。だからこそ、どうにもこうにもしようのない子ですね」
シエルには思い当たる節がある。ギクリとした。
品定めをするようにネイジュはシエルに顔を寄せてまじまじと眺める。Cカップ程度の上品な胸元は谷間などできないが、それでも前屈みになるとやんわりとしたお椀型の隆起に目がいってしまう。
ネイジュがからかうように笑った。
「ふふん。熱心に信仰を捧げる童貞君には刺激が強かったかしらん」
「し、失礼いたしました」
サッと足下へ視線を落とす。
思考を読んだのか――? いや、視線でわかるか……。
「いいえ、違います。女神はすべてを見ています」
ネイジュは胸を張った。
頭の中で思ったことに返事をされているのだから、思考を読まれていることは間違いないらしい。
今まで散々冗談で大口を叩いてきたが、まさか本当に女神様に目をつけられるとは……出世の街道が見えた、と野心を抱いていることもお見通しなのだろう。ということは、その上で直々に呼ばれているのだ。開き直るしかない。
シエルは頭を上げた。瞳には爛々とした強い意志が満ちている。
「女神ネイジュ様――貴女様に向けて嘘偽り隠し立ては無意味でしょう。なんなりとお申し付けください」
何か用、なんて聞くのは野暮である。用があるから呼び出されたのだ。用事を聞けば自分が選ばれた理由もわかるだろう。
「あぁ。ちょっとそこまで魔王倒してきてくださる?」
近くのポストに手紙出してきて、程度の気楽な口調だった。
「魔王ですか……嫌です!」
シエルはNOの言える意思表示のはっきりした男だった。なんのためらいもなく、きっぱりと言い切ったのだ。
「あなた、『なんなりと』と言った直後によくもまあいけしゃあしゃあとそんなことを言えますね」
「お言葉ですが女神様、貴女様へ隠し立ては無意味と承知しております。もしも綺麗事をお望みでしたら私めの浅はかな思考を読むのをお止めいただけますでしょうか」
「開き直ると決めたらこの有様ですか。ああ、人間とはなんて醜いのかしら」
「お言葉ですが女神様、貴女方が我々人類を作ったのではありませんか?」
「それは間違いありませんね。ですが、実際に人類を作ったのは私のず~~~っと前の代の神々ですもの。私は二十二代目のネイジュです。襲名制なんです」
二十二代目……襲名制……他に女神にふさわしい人格の者を選べなかったのか? 節々におてんばで砕けたところが垣間見える。
ネイジュは頬杖をつき、体をゆったりと傾げた。くつろいだ仕草のまま酷く冷たい眼でシエルを捉える。
「で、少年シエルよ。私に仕える身の上でこの女神に逆らうおつもり?」
高圧的な口調。視線の冷気は肌を突き刺すようで身震いしそうだ。
しかし、シエルは自信があった。相手が女なら『たらしこむ』自信が。それはいちいち思考にするまでもなく、彼に染みついたやり口としての自信だった。
「いいえ、いいえ。めっそうもございません。決して逆らうつもりはありません。ただ、僕よりも適任者がいるとは思いませんか? 剣士や武闘家や攻撃の得意な魔法使い、巷には冒険者がたくさん居ますよ」
「バカを仰らないで。女神の人選に文句を言うなんて徳が低いわ、少年シエル」
女神はあざ笑うかのように半眼になり、口元へ三日月型の意地悪い笑みを浮かべた。声のトーンを下げて言葉を続ける。
「あなたの代わりなんていくらでもいます。だから戦う者である必要はないのですよ」
ネイジュが薄暗く愉しんでいることが伝わってきた。こう言えばシエルがどんな気持ちになるか想像し、それをネチネチと楽しむためにもったいぶってゆっくりと言葉を発しているのだ。
――本当にこの女は女神か? ただのサディスティックで傲慢な、調子に乗った女じゃないか。
女神らしき人は、口には出さないシエルの失礼な心中すら面白がるようにニタニタしていた。
意思表示ははっきりするけれど、考えたことを口からポンポン出してしまうほどシエルも子供ではない。不快感を飲み込む。
「……つまり、魔王を倒すことさえできれば誰でもいいと仰られているのですね」
「その通りよ、少年シエル。あなたが倒す必要もないのですよ。炎に焼かれて塵になろうとも、海に沈んで藻屑になろうとも、他の者に勇者の命を与えればいいのです。おわかりでしょうか、少年シエル?」
なぶるようなネイジュの物言い。シエルの自尊心を傷つけることで快感を得ているような――少なくともいい気にはなっている。見下す視線は長い睫に彩られてセクシーだった。
シエルの腹の中でむらむらと煮えたぎるものがある。反骨精神――ムカついているのだ。そもそもがプライドの高い男である。何者にも見下されることは気にくわない。相手は女神だ、信じていないとはいえ崇拝対象だ。それでも、こう思ってしまう。
――このクソ女!
ネイジュは気を悪くするどころか、性悪な笑みがニタリと一層の深みを描く。もはやギリギリ美女という危うい崩壊ぶりだ。
それはシエルも同様。ギリギリ美形という危うい状態で怒りが顔に滲んでいる。ここまでコケにされたのは初めてだった。
「お言葉ですが女神様、少年というのはお止めいただけませんか? 僕はもう成人をしておりますが……」
「でも童貞でしょう。大人の男とは言えないわねぇ」
「出世のために信心深いのだよ!」
うっかり声を張り上げてしまった。シエルは一度咳払いをする。
「大きな声を出してしまい申し訳ございません。近日中に卒業予定なのです。なんなら女神様で卒業させていただいても……」
「あらぁ。私のプレイはハードよ?」
「ほほう。ハードというと?」
「それはご想像にお任せするわ。童貞は妄想がお得意でしょ?」
仕返しのつもりの不敬罪レベルのセクハラだったが、飄々とかわされてしまった。
なんとも手玉にとりにくい。あまり出会ったことのないタイプの女性だった。
「あなたってば嫌でも目に付くくらい優秀でしょう。このまま放っておいたらどんどん出世しちゃうじゃない。せこい悪事を見付からないようにしでかす害悪を女神としては野放しにできないの。なら手駒にしてチョチョイッと働いてもらうほうがいいわけ」
「お言葉ですが僕は正当な努力を詰んでいます。学内では品行方正の模範生ですが」
「学生のうちは学生のルールがあるでしょうね。でも教会内部の大人の忖度は人をダメにするわ。ルールを理解して立ち振る舞えるずるがしこい人間ほど染まりやすくて手に負えないの! まさにあんたみたいなヤツね!」
「今あんたと仰いましたか?」
「言った言った! もう気取るのも飽きたわ。こういう威厳みたいなのって十分キープすんのもだるいから嫌なのよ。ただでさえ今の教会って贈賄やらインサイダー取引やら乱交パーティーやら、本当やりたい放題なんですから……!」
さすがに女神も頭を悩ませているのだろう。可愛らしい唇をムスッと結んでしまう。
「贈賄。インサイダー取引。乱交パーティ。はぁ……」
シエルは鸚鵡返しをした。噂には聞いていたが、まさか本当だとは……シエルの心中で出世への意欲がぐんぐん高まっていく。権力を握り、私腹を肥やし、思う存分快楽をむさぼる。最高じゃないか。そのためなら責任のある仕事だって頑張れる。そういった心積もりだ。だが、素直に聞いているだけでもしょうがない。
「しかし、そもそもそうなる前に止めておけばいいものでは? 腐敗する前に天罰でもなんでも下せばいいと思うのですが」
「私の先代までが大司祭と癒着でずぶずぶだったの。イケメンの生贄の代わりに見て見ぬフリをしてきたわけ。その癒着を断った段階で私って偉いでしょう? けっこう真面目に仕事しているんですからね」
ネイジュは胸を張った。褒めてくれと言わんばかりだ。好意を持てる話の流れをしてくれていたら、シエルだってネイジュのことを持ち上げていただろう。シエルは極めて短時間の内にネイジュに呆れていた。白けた目をしてしまう。
「……いや、女神として当然だろう。人間以上に品格を持って行動してもらわないと、僕らのように布教する側としては困る」
「あんただって変わんないでしょうが! 職業上、並の人間以上に人格者でありなさいよ! なによ自分を棚に上げてその口の利き方はっ!」
女神の声質は可愛らしいが、にわかに金属的な響きがある。声を張り上げると少しヒステリックに聞こえるのだ。
シエルは決めた。端から神など信じていないのだ。目の前にいるのはヒステリックな勘違い残念美人だと思おう。
姿勢を崩して床へ尻をつける。険のある渋い顔になった。
「ふん……わかったよ。女神様とは言え、君のおてんばぶりはいささか信心できないね。悪いけど敬語は外させていただこう」
「好きにすれば。私にとってもどっちでも一緒よ。いくら見かけだけ取り繕ったって私にはぜんぶお見通しだもの」
「確かにそうだろうね。お互い無意味に嘘くさいやりとりは止めよう。君の考えていることは大体わかったよ。話の筋が通っていないわけでもない。魔王退治は僕にはできないけれど、教会内部の改革ならば今後協力してもいいだろう」
「協力してもいい? ぷっ……ンッフフフフフフフ! おバカさん、おバーカさん!」
背中を丸めるように口を押さえると、我慢できないようにネイジュは笑いだした。高笑いを口先で押し殺すような――シエルにはなんとも見覚えのある、悪い予感をかき立てる哄笑だった。
ネイジュは席を立った。
シエルは目を凝らす。
――あっ。細身に見えたけれど、意外と尻がでかいぞ……。
ウエストから腰がぴったりしたドレスだと尻の大きさが強調される。スレンダーというよりは安心感のある安産体型だ。
「ちょっと、どこ見てんのよ。誰のお尻が大きいですって! 別に気にしてないけど!」
ヒュッ――ピンヒールの凶器染みて尖ったつま先が鼻先をかすめた。
間一髪で思い切り背筋をそらして攻撃をかわしたが、まさか、全力の蹴りが飛んでくるとは。同性間でもまともに殴り合いの喧嘩をしたことがないシエルには衝撃だった。
「女神ともあろう方が危ないな!」
「驚くのはまだ早いわ」
背中を反らすということは、転ばないように後ろへ手をつくということ。つまり腹はノーガードに近くなる。そして暢気に崩して座っていた足の形はかなり格好悪い。
女神のピンヒールがズムンと腹にめり込んだ。うっかりすると胃の中のものが口から飛び出そうになる衝撃。
「ぐっは……! こっの……暴力女……!」
シエルは育ちがいいために、とっさの悪口が出てこなかった。
「はぁ? 私は、めーがーみーさーまー♪」
曲げた膝に肘を置き、遠慮なく体重をかけながら足首をこねてぐりぐりとヒールをめり込ませる。その口元は淡くつり上がり、細めた眼には愉悦が浮かんでいた。
「いーい? あんたが嫌がっても私の決定は絶対。ここにいる段階であんたは私の所有物。可愛いオモチャなの。だから、いいだとか嫌だとかじゃないの。命令が遂行できるまでやるの。死ぬまでやるの。おわかりかしら?」
最後にグッと蹴り飛ばすと、飽きたようにクルリとUターンしてまたも玉座へ悠々腰掛け片肘をつくネイジュ。
シエルは完全に横倒しになっていた。腹を抱えて背中を丸めて、芋虫みたいな非常に情けない姿を晒していた。
「く、くそ……こんな屈辱は生まれて初めてだよ……っ!」
「そうね。調べさせてもらったわよ。あんたお坊ちゃん育ちですものね。周囲から愛情を注がれてぬくぬく育ったはずなのに、どうしてこんなに性根がひん曲がっちゃったのかしら。本当、調教し甲斐があってワクワクしちゃう。んっふふっ」
「いくら女神と言えどもね、君……僕は君を絶対に許さないからな……」
「はいはい、どんどんほざいちゃって。言うだけはタダよ。でも、さすがに女神としてあんたにギフトを授けないわけにはいかないわ。なんせ他でもない魔王討伐ですから!」
しなやかで細い二本の指先を唇に当て、痛みで床へ転がるシエルの方へチュッとキッスを向ける。
――ずぬんっ!
「んぉぅぅっっっ?」
場違いなほどに素っ頓狂な、ひっくり返った声が出てしまう。
シエルは混乱した――。
そして激痛に体を折った――。
尻に、何か太いものが埋まっている――!
何が起こっているのか理解ができない。畏れにも近い感情で青い眼を丸くしたシエルは女神を見上げる。女神は不穏に唇の両端をつり上げて、彫刻のようにじっとシエルを観察していた。
「こ、これは一体なんなんだ――」
シエルの喉は苦しさで潰れた。口の隙間から声を絞り出す。息を吸い込もうとして――
ブブブブブブブブブブブブブブ!
――細かい振動に尻穴が戦く。
「いぎひぃぃぃっっ!?」
息を吸い込みながら甲高い悲鳴を上げた。
体中を轟かせる衝撃――尻穴が裂けそうなほどの異物感! まるで腕一本を尻から無理矢理突っ込まれているような恐ろしさと苦しさ。
「うぐああぁっ、な、なんなんだっ、なんなんだこれはぁっ、あぐっ、ひぃっ!」
痛みなのか恐怖なのかすらわからない。直腸の中で震えるソレに、ただただ体が悶えるだけだった。
わからない、訳がわからない――どうして、なぜ、いきなり尻の中が爆発しているというのだ――!
「一度しか言わないからよぉく聞くのよ」
じらすように女神はゆっくりねっとりと言う。
「それは『聖なるアナルバイブ』」
「アナルバイブ!? なんでそんなものにいかにも神聖そうな形容詞をつけているんだ!」
「はぁ?」
あんなにも可愛らしい声帯がドスの効いた低い声を出した。刃物染みた瞳からは殺意に似たものがあふれ出している。
「ひぎいぃっ……!」
ああ、なんということだろうか! 振動が……振動が強くなっていく!
窄まった器官を無理矢理開発する強烈な責め。彼の出す一方だった無垢な菊門を『受け入れるもの』として急速に塗り替えていく。
「な、生意気な口をきいて申し訳ございません、女神様! どうか、どうかっ……お慈悲を……! これを止めてください……!」
息も絶え絶えになりながらシエルは地面へ這いつくばり、女神の前へ頭を垂れた。
床にポタリと滴が垂れた。涙か、鼻水か、涎か。こんな無様な姿を晒して震える自分が認められない。
それでも振動が恐ろしかった。強烈な痛みの先の、何かが――何かが目覚めてしまいそうだった――。
「ふん。これじゃお話にならないでしょうしね。いいわ、今回は許してあげる。あ、別にいつも敬語じゃなくていいのよ? おバカなことさえ言わなければなんだっていいの」
女神がパチンと指を鳴らすと振動は止まった。尻の中の異物感も消えたが、どうにも尻穴は未だ驚いているようで、形状を戻しきらずヒクヒクと震えていた。
ホッと息を吐き出す。まだ心臓はバクバク言っていた。頭の中は真っ白だ。
「これが聖なるものなのは私の加護があるからよ。少年シエルの魔力や攻撃力を強化したり、ついでに命の危険も一回くらいは救ってくれるありがた~い装備なの」
ここで女神、顔の横で人差し指を立てて。
「ブランシュ教って多様な愛は認めているけど基本的には禁欲主義でしょう? 性行為は肯定しているけれど淫乱は堕落ってね。だからオナ禁二日で二倍、三日で三倍の魔力よ!」
「今オナ禁って言ったかい……?」
女子の口から聞きたくない単語である。あきれて笑うにも気力が出ず、シエルは呆けた顔をしてしまった。
「そうよオナ禁! だから冒険の最中はシコッちゃダメよ」
「シコ……」
下品なオウム返しをする。
女神の右手はエアで何か長物を扱くジェスチャー。
「かと言って異性に抜いてもらうのもなしだからね。女の子といい雰囲気になったらアナルバイブが発動するわ。理由はどうあれ意識がある状態で出したら女神チョイスの愉快なBGMと共に魔力リセット。これで説明は全部かしらね。おわかりになった?」
女神は、話の締めに無垢な笑顔で小首を傾げた。シエルは不条理に頭を抱えた。
「……どう解釈しても呪いの装備じゃないか。どうやって外せばいいんだ……」
「魔王を倒したら外してあげる。男になりたいなら勇者業がんばらないとね~?」
手の甲で口を押さえると、女神はくつくつと肩を揺らした。
勇者として魔王を倒す――シエルは口の中で言葉を転がす。実感は何一つない。今までの人生で一度たりとも考えたことはなかった。なにせ、大司祭になることだけを目指して真面目にやってきたのだ。力を込めた手の平にはじっとりと汗をかいていた。
「……ひ、一つ聞きたい」
「えー? 当然だけどこっちには黙秘権あるからね。なに?」
「本来なら、僕たちは明日の按手が終わったら教会に就職する。しかし、魔王討伐の旅に出ると学院でのキャリアや今後の出世が無に還る……! ぼ、僕の人生の保証はあるのかい!? 君は責任とれるよね!?」
「あらいやだ。なにそんな小さいことを言っているの? まずは生きて帰ってこれるかどうかの問題でしょうが。あんた結構ノンキなのね」
人を人とも思わぬ涼しい顔で女神はしらっと言い放った。
おお、おお! シエルの心中は荒れに荒れている!
「僕は、僕はっ――地位! 名誉! 権力! 金! 女! そういうすべての富と名声、ありとあらゆる幸福を手に入れる男なんだっ……! 魔王討伐なんてつまらない仕事でおちおち死んでいられるかっ!」
あふれ出る、醜いほどの生への欲求――! 見る者を引きつける造形美は、臓腑の醜悪さをあふれさせてなお輝きを放つ――!
真っ白な地面を拳で叩く。衝撃がなければ痛くもないのは、シエルの意識が入眠時のように揺らいでいるせいだった。
「んっふふふ! 本当に活きのいい生け贄ね。これは存分に楽しませてもらえそうだわ」
女神の押し隠した笑い声がシエルの耳の奥に響いた――。
バーの間接照明に、友人二人の顔がぼやけて浮かぶ。おまけにマスターまでいた。
壁際に寄せられたシエルが目を覚ますと、三人はほっとした顔を見せた。
「ああ、よかった。立てっか?」
七枚の彼が手を差し出す。その手をじっと見つめるが、シエルの視界と頭は寝ぼけたようにピントが合わない。
シエルはゆらりと立ち上がる。顔からはすっかり酒が抜けて青白くなっていた。頭を押さえるが、頭痛はない。……もちろん気は確かだ。
「学生最後の日に酒で倒れるなんてダセエな……おいなんか言えよ」
三十枚の彼はシエルの肩を軽く叩く。憎まれ口を叩きながらも心配しているのだ。
シエルは左右を見渡して、世界には何も変わりがないことを確認した。友人のグラスの氷は記憶とさほど変わらず、ほとんど溶けていない。十分も経っていないのだろう。
「……僕は教会へ就職しない。魔王討伐の旅に出るよ。今、女神の啓示を受けた……」
震えたか細い声で言う。手も震えていた。妙に胃が冷たい。どれもこれもアルコールのせいではなかった。