長編ライトノベル「勇者の鬱」4章


 【四章】勇者と魔王の冒険。



 俺、カナリー、レイヴン。

 途中までは鉄道や馬車で気晴らしの観光を交えながらまったり移動した。三人旅はめちゃくちゃ楽しくてはしゃいでしまった。

「不思議だなぁ。俺の故郷も同じくらいの田舎なのに、ぜんぜん空気感が違うや。おもてなしの構え方が違うっていうか」

 名物だと看板に書いてあったしょっぱい焼き菓子を食べながら周りの景色を眺めるだけで気分が弾む。そういえば、つい最近まで何を食べてもまともに味が感じられなかったことを思い出した。

「なんか、こんなに楽しそうなアルを見るの初めてだ。よかったねぇ」

 視線は低い位置にあるのに、レイヴンは保護者のように温かい目を向けてくる。

「前の仕事に出てからだもんな、レイヴンと会ったの。よくぞここまで付き合ってくれたもんだよ」

「だってさぁ、こんなのお得パックじゃん? 伝記の取材をしつつ、自分のルーツまで見に行けるんだもん。最初は死を覚悟してたけどね? 本当、ふっしぎ~」

 肩を竦めて笑うレイヴン。俺も調子をあわせて「ねえ。ふっしぎ~」と笑った。

 俺達を見るカナリーの視線は優しいのに、自分の足下へ向けるときには憂鬱だった。

「私もこんなに自由に友達と出歩けるなんて夢みたいです。これがただの旅行だったらいいのに……」

「わかる。たまに目的忘れそうになる」

 レイヴンはこくこく頷く。

 そうだ。俺は危険な仕事に向かっていたのだ。楽しくて忘れそうになるけれど、俺は彼女の父親も大勢の仲間も殺している。

「こんなヘラヘラ笑ってていいのかなぁ」

 カナリーと親しくなればなるほど、人間と魔族との違いがわからなくなってくる。相手は敵だ、魔族だ、と思って殺していた。しかし、価値観が反転すると自分の罪の重さをひしひし感じる。誰かの幸せを奪ってしまったら、奪った方は笑っちゃいけないんじゃないか。夜の入眠直前だとか今この瞬間みたいに、急に来る。

「なにいってんのさ。そんなこと言ったらカナリーも気にしちゃうだろ」

 レイヴンに脇腹を肘でつつかれた。おかげさまでびっくりして、暗い考えから気持ちがそれた。

 今言われて気がついたのか、カナリーはあっと小さく口を開いた。ゆっくり俯いて、眉を下げる。

「そう……ですね。私も父が亡くなったばかりです。薄情ですよね……」

「ってなっちゃうから、そんなこと言うのも考えるのもよしときなよ、二人共。いいとか悪いとかわかんないけどさ、二人が暗い顔するのは誰も願ってないと思うんだよね」

 歌うような軽い口調だ。なのに、心へ直接問いかけてくる。

 カナリーに笑っていて欲しい。しかし、俺が彼女の笑顔を奪っている。反対に、カナリーとって俺は親の敵だけど、許さなくてはならない。自分で自分が忘れることを許せないが、彼女に許されたいと思い出すたびに竦み合っている。忘れているときは、ただの友達になれているのだろうか。

「今は英気を養わないといけないんだから、沢山食べてちゃんと寝てしっかり遊んでおくの。何のための英気だって話。わかる? わかるな? わかれよ!」

 唇を尖らせたレイヴンが両手を広げて俺とカナリーの背中をバンバン叩いた。

「痛いって! わかったわかった~……」

 俺は曖昧に笑う。わかってしまっていいのか? レイヴンに言われたから仕方なく渋々頷いた、という体を装う。カナリーの顔色が気になってしょうがない。

 半分笑うようなため息を零すカナリー。唸っているのかもしれない。ほんのささいなことなのに、妙にセクシーだった。

「最近、どう捉えて良いのか、わからなくなってしまって。アルさんは父と仲間の敵でしょう。でも私、アルさんのこと好きです」

「えっ? えっ! 好きって言った?」

 俺は素っ頓狂な悲鳴をあげた。血液が沸騰しそうだ。

 途端にカナリーは真っ赤になった。左右へ激しく頭を振ると、つむじの髪の毛がぼさぼさと逆立った。

「ち、違います、違いますっ! お友達としてって意味ですよ!」

「あっ! ああ、そうだよね! あんまり言われたことないからドキッとした……」

 今まで俺のことを好きっていってくれた女の子は二人だけ。胸に手を当てる。飛び出そうになった心臓は、今や逆に止まりそうだ。友達として好きというところまで認めてもらえたのは本当にすごい。がっかりするなんて間違っている。

「もう。びっくりさせないでください」

 カナリーは頬を膨らませて、拗ねたようにため息をついた。

「うーん。今はこんな気分かな?」

 レイヴンはニヤニヤしながらハープを取り出し、繊細で情緒豊かなメロディを奏でる。俺達がいい雰囲気とでも言いたげだ。

 ツンとそっぽを向いていたのに、カナリーはあっというまにご機嫌を直して穏やかに微笑む。

「いいメロディですね。即興ですか?」

「ミーは吟遊詩人だからね。空気の中の音符を拾って奏でるのさ」

「素敵ですね。景色や光の暖かさみたいなものがあって……んん、それにしては、エモーショナルな気もしますけど」

 どう解釈すればいい? と小首を傾げるカナリー。レイヴンは「んっふふ」と含み笑いで誤魔化した。からかわれてんだよ!

 やきもきしながらも、俺は今が幸せのピークのような気がしてしまった。

 帰る頃には前より更に落ち込んでも、もはや生きて帰れなくても、いいかも。自分を追い詰めて義務を果たすだけじゃ、こんな気持ちは見つからなかった。この二人は絶対に死なせない。例え俺が何人殺しても、自分が死んでも、守り切る。


***


 現地に近づくにつれて、世界の色が褪せるように風景は寂れていった。土の色や質感から見て土地が悪く、市場でよく見る作物も育たないだろう。そこらの木も痩せている。

 途中で馬を買うも、レイヴンに乗馬経験がないため二人乗りと相成った。子供みたいな体格だからマシだけど若干しんどい。

「これだけ辺鄙な場所なんだから、村一つ隠すには十分だよな」

「村から脱走する場合さあ、特に準備せずに走って逃げたら普通に行き倒れそうだね」

 懐から返事があった。大きなリュックサックを前に抱えたみたいに収まっているレイヴンが言う。

「そうだな。川も見つかんないし、まともに食べられそうなものもないなぁ。そこらの鳥をうまく狩れば、まぁ……」

 木々に果実の影はなく、見慣れない草は食べられるかどうかも判断できない。鳥は飛んでいた。探せば虫もいるかもしれないが、食べられるかは好みによる。

「ただ、人の行き来があることはわかるね」

 流れていく地面を見るレイヴン。踏みならされた太い土の道が続いている。俺達は道に誘われて走っていた。

「敷物とか売って商売してんじゃないか? 資金がなきゃ色んな所に潜り込むこともできないだろ」

「出て行ったやつが資金を持って戻ってきてもおかしくないとミーは思うけど」

「あー。出て行ったやつに資金があるなら、そこを基地にすることもできるな」

「色々考えられるけど、商売だけはして欲しくないよ。怪しいもの売りそうだもん」

「マジでそう思う」

 俺は前を向き続けながら頷いた。あんな怪しい茶葉が流通したら人間社会が終わる。

「あっ? 待って! 止まってください!」

 カナリーが馬を急停止させ、ひらりと地面に降りる。

 こんな状況でも彼女はフリフリドレスをやめていなかった。馬に乗るときは足を開くし、風圧でスカートはヒラヒラはためくし、乗り降りするときにはペチコートの下のドロワーズの裾が見えてしまう。露出が少ないせいか、膝小僧ですら気になってしょうがない。

「なに?」と俺は馬を止める。

 カナリーは両手と膝をべったりつけて、まじまじと地面を眺めている。髪の毛まで地面についていた。異様な絵面に怪訝な顔をしてしまう。

「汚れるよ……」

「そんなことより大事なんです! 聞いてください!」

 カナリーは荒々しく蔓を引っ張ってブチブチッと千切った。彼女の地の性格を見た気がする。

「これは地底に生える蔓草です。赤い花は土の特定の養分を吸います。だから他の植物は枯れてしまうのですが、この蔓草だけは残るんです。なので、地底でこの蔓草を見かけたら花を探して除草します」

 俺は軽く手を上げる。

「この花、魔界では駆除対象なの?」

「はい。繁殖力が強く、竜が炎を吐いたように一面赤い花になってしまうんです。それが赤い花の名前、レッドドラゴンの由来です」

 カナリーは指先で地面をひっかくように掘った。手についた土を摺り合わせる。こぼれ落ちていく様を眺める。香りを確かめる。

「カナリー、土は口に入れちゃダメだぞ」

「私は赤ちゃんじゃありません! 大事なことなのに、なんで茶化すんですか!」

「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど……」

 あまりにも真剣すぎて、そんな気がしてしまったのだ。レイヴンが「うんうん、わかるよ」とカナリーに聞こえない程度の小声で相槌を打つ。

「わかってくれて嬉しいけど、それならちょっとはかばってくれよ」

「そんなことしたら、カナリー、きっと拗ねちゃうよ」

 俺は少し間を置いて「だな」と納得した。余計なことを言う俺の方が間違っていた。

「もう、本当にアルさんってば失礼なんだから」

 軽く手を払うも、すっきりしない様子のカナリー。膝をパンパンと叩く。スカートをバサバサと叩く。砂や小さい石、葉っぱがパラパラと落ちる。

「さあ、行きましょう。この蔓草を辿っていけば間違いないでしょう……?」

 こういう鈍くさいところあるよな。俺は馬から降りて、いつも通りに持っていたハンカチを差し出した。

「拭きなよ。さすがに櫛は持ってないけど」

「あ……そ、そう、ですね……洗ってお返ししますね……」

 ギクリとしたカナリーは、叱られるかなぁと気まずそうにしている子供みたいに目をそらして手を拭いた。

「髪も拭いた方が良い」

「はうぅ……」

 前のハンカチもまだ返ってきていない。そもそも、カナリーだってポケットにハンカチ持ってるだろ。

 蔓草を辿っていくと、まもなく赤い花が咲き始めた。鮮やかな五枚の花弁が枯れた大地に群生する様子は、確かに炎に大地が巻き取られているように見える。その先には村らしき建物の影が見えた。

「マジで正面から行くのか?」

 打ち合わせはとっくに終わっているけれど、目の前にするとやっぱり不安だ。

「はい。結論は変わらないと思います」

 自信があるのか、心強いほどにカナリーの声は冷静だ。特に説得できるような代案もないので、俺は彼女の言う通りにしよう。

「わかったよ。姫の仰せのままに!」

 そこからはあっという間の到着だった。

 俺の田舎よりも文化レベルが二つは格落ちするだろう。目立つ建物どころか道路の概念すらない。土の上のあちこちにたっぷりの距離を置いてポコポコと家が建っている。

「あっ、すみませーん! ちょっとお時間いいですか?」

 第一村人に声をかける。

 巨乳だ! 振り返る瞬間に前へ突き出た胸がたゆんと揺れた。抗いがたく目が釘付けになってしまう。ふわふわしたロングヘアに白いワンピース、少し年上の女性だった。カナリーとは反対のタイプで、おっとりした垂れ目が色っぽい。なんでも受け入れてもらえそうというか、隙があるように見える。

「あら! お客様なんて久しぶりだわ。こんな辺鄙なところへ、ようこそいらっしゃいました。どちらからお越しになったの?」

 ハスキーな声色はセクシーで、ゆったりと間延びした語調は知的で優しそうだ。万歳! 当たりくじを引いた!

「王都の方からです」

 カナリーの声は緊張で強ばっていた。

 素直に素性を明かすのは不用心じゃないか? 美女にすっかりのぼせていた俺だが、ひやっとして慌てて口を開いた。

「僕ら王都の学生でして、地方の伝統的な料理についてフィールドワークしてるんです。お話お伺いできませんか? 他のグループにはできない発表になると思うんです!」

「まあ、楽しそう! いいわよ。とは言っても、この村は村人全員が同じ場所で食事を取るの。私だけだと決められないから、村長に相談してみるわね」

「助かります! やったな!」

 俺はハイタッチを強要した。

「イエーイ! ありがとうございます!」

 レイヴンはうまく調子をあわせてノリノリだ。カナリーは眉を下げている。これは不服なときの顔。

「私はダリア。そうね……私の家で少し待っていてもらえるかしら?」

「あ、いえ。直接お伺いします」

 と、カナリーが固めに言う。

「ううん。ちょっと待たせちゃうから。それより、皆さんのお名前を聞かせて欲しいわ」

 俺達は口々に名乗ったけれど、一度に三人の名前を言われても覚えられないだろうな。

 どこの家も似たような大きさと外観だったが、印象は俺が故郷で住んでいたような小屋に近い。案内された家には廊下がなく、扉の様子からリビングの他に二部屋ある程度だ。部屋の間取りに比較して窓が小さくて一つしかない。昼間なのに薄暗いので蝋燭が焚かれている。なんて圧迫感のある息苦しい環境なんだ。

「お茶どうぞ。それじゃあちょっと待っててね」

 小振りな机には四脚の椅子。目の前には、どこかで見たことがあるようなするありふれたデザインの繊細な花の模様のカップ。注がれた薄い黄茶色から湯気が立っている。

 薄ぼんやりと不穏な気配。すげーいいホテルの誘導みたいなマニュアル染みた案内だった。親切か? いや、ここに来てそりゃないだろう。頭から決めつけてる。疑ってかかる。変だ!

「これ、おしっこみたいな色してるね」

 レイヴンがカップに鼻を寄せて動物みたいにフンフンと匂いを嗅いでいる。

 俺も嗅いでみた。ハーブティーだろうか。鼻の奥で花の香りがくすぶる。蜂蜜少々。味がはっきりしなくて好みじゃない飲み物だと想像できた。

「香りはお茶だけど色は完全は尿検査だな」

「したことないよ、尿検査なんか」

「ふーん? 俺はやったことあるけど? 勇者になって初めてやったのが健康診断。そこではじめて尿検査したわけよ」

「自慢になんねぇ~」

 レイヴンは両手を口に当てて笑った。

 しかし、カナリーは非難めいた目で俺を見てきた。さっきからずっとお怒りムードだ。

「なんで今そんな話をするんですか? ふざけるのは時と場所を考えてください」

 俺だけ? どうして俺だけそんな目で見られるの? 確かに話題を広げたけれど、先に言ったのはレイヴンだ。ムッとして口をつぐむ。

「ところでアルさん。先ほど、どうして料理なんて言ったんですか?」

「直接本題言ったってハイそうですかって答えてくれるわけないだろ。クーの家でのこと忘れたのかよ。あ、いや、正面切って堂々と行くところは潔くて好きだけどね」

「どちらにしても結論は同じでしょう。アルさん達のようにまともな会話や命乞いが通じる相手ではないと思います」

「なんで同じって言い切れる? 仮に同じだとしても、俺、そんなに悪いことしたか?」

 きつい口調でまくし立てらる。思い通りに話を進めるから黙っていろと言われても、見ていられない場合だってあるのだ。例えばスカートの上にジェラードをこぼすときとか!

 カナリーの小さい唇が不機嫌に尖る。

「さあ。こういうことは結果論でしか話ができませんし、どちらにしても結論が同じならば善し悪しもないと思いますけれど。事前にもっと打ち合わせをするべきでしたね」

「そうしていればここで言い争いをする必要はなかったな。俺、うるさい?」

「あら。あなたってばそもそもおせっかいでよく喋る方だと思っていましたけれど」

「その通りだけどさぁ。今、そういう話?」

 もう、なんでこんなにイライラさせるの? 神経質な八つ当たり?

 レイヴンが気の抜けた鳥の鳴き声みたいな口笛を吹いた。

「あんまりカリカリしないの。ここ敵陣」

「うん……そだね。落ち着こう。ごめん」

 自分の頬を叩く。ひしひし漏れ出てくる異様なオーラに気が立ったのだろう。反省だ。

 カナリーはカップに指を添えて持ち上げた。

「ちょっと!」

 俺は細い手首を掴んだ。カップからお茶がこぼれて、カナリーと俺の手にかかった。

「わっ、熱い。何するんですか!」

「ごめんて! 飲むの待って! 何が入ってるかわかんないから、俺が毒味するから」

「対人間用の毒程度じゃ効きません。人間の血の濃いお二人の方が心配です」

 可愛げのないくらい強い視線と口調で制された。

「まあ、そう言うなら」

 俺はすごすご引き下がる。

「花の香りがします。もしこれがレッドドラゴンを煎じたものでしたら、最初のトラップですね」

 俺は背筋が粟立つのを感じた。ぶるっと体が震えてしまう。武者震いなんかじゃない。とんでもないところへ来てしまったという恐怖だ。

「ミー、トイレいってくるね~」

 真っ白な顔をしたレイヴンが席を立った。衝撃のせいか足取りがふらふらしていた。

「おう、そのまま逃げてもいいけど掴まるなよな。俺、ちょっと怖くなってきた」

 その方が良いかもしれない。半笑いで後ろから声をかけた。道中は別に一緒に行動したわけではないが、俺と併走して旅ができるくらい足には自信があるようだ。放っておいても大丈夫だろう。親のふるさとを見たいと言っていたけれど、結論的には来ない方が良かったのかもしれないなぁ。

 カナリーはカップを持ち上げて絵柄を見る。それから周囲をぐるりと見渡した。

「このカップは人間界の市販品ですね。キルトの図案は、独特ですね。あそこにあるのは神棚でしょうか……」

 カナリーの視線の先を追いかける。キルトのカーペットは今まで見たことがない柄で、人が輪になっているみたいだ。棚は小窓の下にかかっていて、窓を額縁に見立てているようだった。

「アルさん。室内での戦いはお任せしてよろしいですか。私が魔物の姿になるには手狭なんです」

「うん、いいよ。任せて。実際にはどれくらい手狭なの?」

「腕一振りでこんな家吹き飛ばしますよ。つまり、貴重な資料かもしれないものまで壊しかねないんです」

「想像より豪腕……」

 魔王の姿形すら覚えていないから、カナリーの魔物の姿が想像できない。変な感じだ。

 自信があるのか、カナリーはプライドで顔を固めると背筋を伸ばした。

「人間と比べられては困ります」

「俺もそこらの人間と一緒にされちゃ困るけどさ。まあ数ヶ月分は鈍ってるけど、人間如きにゃ負けねえよ」

 退魔の剣の柄を叩く。

 それと同時、扉がノックされた。俺は空気を飲み込む。カナリーは、公務用の形式的な笑みを浮かべて立ち上がった。

 仙人みたいな白い髭のおじいさん。その脇に、頭の良さそうな顔立ちをした体格のいい成人男性が並ぶ。その後ろにダリアさんが控えていた。

 みーーーんな揃って白い服。ゆったりとしたワンピースみたいな服を、ウエスト絞ったり、パンツ合わせたりして着ている。だけど外野からしたら個性なんかよりも白くてゆったりした服を着た集団にしか見えない。

 それだけで、なぜか視覚的な恐怖を覚えた怖い。同じ姿をしているのに自分とは違うもののような違和感。俺の隣には魔物が人間に化けているカナリーがいるのに。

「ようこそいらっしゃいました」

 白髭のおじいさんは細い体から掠れた声を出した。海の底から聞こえる得体の知れない深い響きを想像させる静かな声。

 カナリーはスカートの裾を掴み、花が風に揺れるみたいに上半身を優雅に傾けた。

「初めまして。急にお邪魔してしまい申し訳ございません。私はカナリーと申します。このたびは温かく迎え入れていただきありがとうございます」

「これはこれは、ご丁寧に。私は太陽の村の村長、サンタンカと申します。伝統料理の調査にいらっしゃったと伺いましたが……」

 村長は机の上の、カップをちらと見た。それから俺を見た。鋭さとは違う圧力を双眸から感じる。心臓の底を揺すられるようだ。

「こちらも伝統料理の一つですよ。お越しの最中に咲いていた赤い花を乾燥させてハーブティーにしたものです」

「すみません。アレルギーがあるので、成分がわからないものは口がつけられなくて。せっかくご用意していただいたところ本当に申し訳ない」

 俺はぺこりと頭を下げる。実際の所は何を食べても大丈夫だけど、ター君がこんなことを言っていたから拝借した。

「ああ、それはそれは……」

 村長が脇の男とアイコンタクトをとった。疑われているのか、次の手段をとるのか。

 ダリアさんが不思議そうにきょろきょろする。

「ところで、もう一名いましたよね? 小柄な方が……」

「えっ? 最初から二人ですが……」

 俺はシラを切った。どうせバレる嘘だ。掴まっていなければ彼女しか見ていないだろうから、今を乗り切ればいい。重要な情報を引き出せばあとは暴力でどうとでもなれ。

「あら。私の勘違いだったかしら。時々、二人が四人になることもあるのよ」

 おかしそうにダリアさんが笑って、口元をそっと押さえた。

「ちょっと、何言ってるかわかんないスね……」

 反射的に口から余計な言葉が飛び出した。俺は手元のお茶に目を落とす。幻覚作用でもあんのか? 怖すぎない?

 村長の脇の男がダリアさんへ耳打ちをする。ダリアさんは「はい」と返事して、パタパタした足取りで家を飛び出していった。

「私たちは伝統料理の調査に来たのではありません」

 カナリーの鋭い声に、空気が痺れるような緊張で張り詰める。これ以上、俺が下手な嘘を吐く必要がなくなったということだ。和む巨乳はもう視界に入らない。ここにいるのは、ジジイ、オッサン、俺、震源地だけだ。

「私は歴史の調査をしています。魔物がなぜ地下に閉じ込められているのか――その資料がないかを調べに来ました。私の調査は王国騎士団にもご支援いただいていまして、すべての資料を共有しています。どうか研究にご協力いただけませんか?」

 カナリーの揺らがない澄んだ声。説得力と同時に、人を傅かせる力がある高貴な声。

 身の回りのことを明かして権威を示すのは、反面、周囲に危険が及ぶのではないかとも不安にもなった。いや、それは俺達がミスらなければ問題ない。

 村長も、男も、凍り付いたような真顔だ。最初から穏やかに迎え入れられていたとは思わないが、今は剥き出しの敵意――殺意を向けられている。

「ほう。それは難しい研究をされていますね。大変興味深い内容です。ですが、この村にはお望みの資料はありません。わざわざこんな遠方に出向いていただいたのに徒労となってしまうのは心苦しいのですが……」

 背中に気配を感じた。俺は咄嗟にカナリーの腰を掴んで引き寄せた。

 パリンと小さな窓が割れた。重い音を立てて机の上に矢が刺さった。クラシックな矢だが人体には問題なく有効だ。

「おい変なもん飛ばすなよ、追々飛ばしていこうと思ってたのによ。ていうかいい腕してんなスナイパー」

 カナリーの体がガチガチに強張っていることが腕から伝わってきた。そっと解放して、半身前に出る。後ろは壁だから大丈夫だ。

「彼は勇者です。私は上位の魔物です。皆さんのことを武力で制圧するのは容易いでしょう。私は戦いを望みません。どうか資料を差し出してください」

 カナリーは声を張り上げたけれど、かすかに震えて掠れていた。覚悟していても現場はやっぱり怖いのだろう。わかる、俺もだよ。

 老人は顎で男に何かを指示した。男が一歩前に出たところで、俺も本格的に戦う気分になってきた。

「私たちは白い服を着よう、って本当にみんな白い服なの器用な話だな」

「どこでその歌を知った」

 初めて男が口を開いた。強そうなガタイに似合わず早口でヒステリックな声だ。

 俺はレイヴンっぽく気楽に口笛を吹いた。

「バカにしているのか!」

 男が懐からナイフを取り出した。背後のカナリーがヒュッと息を飲む音が聞こえる。

「ごめんダリアさん!」

 俺は机をひっくり返して盾にすると、男にぶち当てる。流石に倒れるほどヤワではないらしいが距離は縮まった。机越しに男の首をアームロック。机の角を支点に梃子の原理を活用してめいっぱい締め上げる。泡吹いて落ちた。よし! 俺は机と男を突き飛ばした。今度は一緒に倒れた。

 背負った剣を引き抜くには室内が狭すぎる。振り回してもどっかにひっかかりそう。流石の勇者でも、間仕切りの壁の穴を開けるくらいは楽勝だけど、剣の一薙ぎで外壁をバラバラに粉砕するパワーはない。とりあえず素手でいこう。

「よう村長、死ぬならベッドの上がいいだろ? なら俺達に賭け(ベッド)してくれよ。そうしなきゃバッドなデッドエンド。俺達は意志を尊重するよ」

 俺は置物みたいに立ち尽くす村長を指さした。乱闘にも気絶した男にも関心を持っていない冷たい目だ。

「随分凝った物言いだが、状況を見て言うといい」

 扉を開けてぞろぞろと白服の男達が乗り込んでくる。表情には怒りも動揺も見られない。微動だにしない姿は自分たちの勝利を確信していて、面倒だとかつまらないとすら思っていそうだ。

「質問。殺すつもり? 捕らえるつもり?」

 無視。

 俺は一番手近の村長をぶん殴った。細く脆くなった骨の感触。老人を殴ったという実感。暴力なんか楽しくねぇよ。どうせ老い先も短いから脅しの一発でやめとくか。

 村長は崩れ落ち、痛みと憎しみで皺の深い顔をくしゃくしゃにした。

「この、下界の若造が!」

 怒声を合図に白服集団は雄叫びを上げて向かってきた。一旦外にうまいこと逃げ出してしまえば剣を振り回しても問題ないだろう。浅く握って上手に振るえば室内でも剣を抜いていいだろう。でも、剣で斬ったら死体しか残らないんだろうな。怯えているカナリーの目の前で殺すのは躊躇してしまう。殺す覚悟はできている。けれど、もう少し自分の力を信じてみるか。上手に手加減できるかな。

 俺は椅子を振り回し、頭から殴った。椅子が壊れた。男は頭から血を流して倒れた。まあ脳振盪程度で、死んではいないだろう。

 俺は棚をぶん投げた。たまたま近くにいた人が角にクリーンヒットしたけれど、まあ死んではいないだろう、多分。

 ナイフを持って突っ込んでくるヤツがいた。突っ込んでくる向きにかわしながら相手が伸ばした腕を掴み、背負って壁に叩きつける。落ち方が悪いのか首がちょっと変な向きになっていた気がするけれど、俺のせいじゃないな。重力のせい。

 そんな感じで相手の武器を奪ったり殴ったり関節をキメたり投げたりして、何人倒したかは数えていないからよくわからない。

 ぴたりと襲撃が終わった。

「あれ? 終わり? おぉ悪ぃ。死んでるやついる?」

 俺は指さし確認をした。うめき声聞こえる。よし。這って逃げようとしているやついる。よし。みんな生きてる。よし。最後に長老を指さし確認する。うっかり巻き込まれて死んでない。よし。

「情報吐かないと命は儚いもんだね。こっから殺すのは簡単だけど、ここの一族暗澹たる未来。そんな惨憺たる結末、俺も悲しいよ。彼らの命と情報の交換でどうだ? ご不満ならおかわりするか? お変わりなくぶちのめすだけだ」

 壁にべたりと背をつけた長老は震えるようにガクガク頷いた。あれほど威圧的だった淀んだ目は、今や見る影もなく矮小に怯えている。

「どうやら君たちの言うことは本当みたいだな。わかった。もう手出しはさせん。すべてをお伝えしよう」

「ああ、よかった! 死体なんか作らずに、平和的に解決したいですもんねえ。剣を抜かずに済んで俺も嬉しいッス」

 俺は無闇に出入り口へ背中を向けないように気をつけつつ、カナリーを振り返った。

 端に座り込んで震えていた。顔色は真っ青なのに油汗が滲んで、髪の毛がぺたりと額や頬に張り付いている。顔を上げると、固く唇を噛みしめていた。

「終わったよ」

 手を差し伸べる。なんとかして彼女を安心させたい。

 だけど、俺に向けられたのは怯えた目。怖い者を見る目。殺されてしまいそうな恐怖を湛えた目。

 カナリーは視線をそらし、壁に背中をつけて体重を預けながらゆっくり立ち上がる。

 俺は出した手の行方に困って、自分の手のひらを見た。自分のものか人のものかわからない血が付いている。こんなもん受け取れと言う方がどうかしている。下げるしかない。ズボンの尻で適当に拭いた。

「平和的って、なんでしょうね……」

 カナリーの声も唇も震えていた。怒られている気分になる。

「少なくとも殺さなかったよ」

 褒めて欲しいくらいなのに、カナリーは震えを押さえるようにきゅっと口を結んだ。

 守るために戦った。でも、怖がられてしまった。今回は殺していないからって、だからなんだというんだ。その前は全滅させている。わかっているのに、感謝されることを期待してしまった。

「あらっ! どうしてこんなことに?」

 入り口からぴょっこりと顔を出したダリアさんが両手で口を覆った。場違いなくらいにのんびりした調子だ。

「ダリアよ。彼らを聖地へ案内してやってくれ」

 頬の赤紫が目立つ村長。ダリアさんはしばらく黙り込んでしまった。

「はい。わかりましたわ。では、こちらへ」

 たっぷりの間をとってからおずおずと頷き、村長が差し出した鍵を受け取る。

 あんなに親しみやすかったダリアさんが、今は顔色の悪い無口な人になってしまった。それでも地球は回るし、おっぱいは揺れる。

 家から出たら視界が広大に開けた。それほどまでに室内は息苦しかった。背中を守るものがなくて不安だったが、不意打ちをされることはなかった。すれ違う人は子供と女性ばかりで人数は多くない。村人はスパイ活動で出払っているのだろうか。村に残っていた男は、全部ボコっちゃったのでは?

 しばらく歩くと崖が見えた。崖かと思ったら、地面に大穴が開いていた。

「なんじゃこりゃ……?」

 困惑が口から行き場なく飛び出す。

 大穴に銀色の柱が建っていた。銀色の表面は日の光を反射してテラテラと輝き、まっとうに見ていると目に光が焼き付いてしまう。しっかり見てもわからなさすぎる。

 カナリーの意見を聞きたいところだが、不自然に沈黙している。何かを考えているらしく、横顔は研ぎ澄まされていた。

「この下が聖地です。階段は歩きにくいので、足下に気をつけてついてきてください」

 ダリアさんは大穴の脇にある小屋からランタンを持ってくると、壁沿いの階段を下る。階段は壁を切り崩して作られており、ぐるりと螺旋状になっていた。下までは相当歩かされる。

 先頭ダリアさん、カナリー、末尾俺、という順番だ。土の壁から漂う香り。頭痛がしそうな一定の間隔で響く足音。息苦しくて胸がつかえる。地獄に向かっている気分だ。この村は開放的な立地なのに、どうしてどこもかしこも心を病ませる造りなのだろう。

「ダリアさんはこの村の出身ですか?」

 気晴らしに話しかける。そうでもしないと気持ちがぐんぐんと落ち込んで、しゃがんだまま動けなくなりそうだった。乱闘の緊張と興奮から解放されて以降は散々なので、反動で自己嫌悪のスイッチが入りそうなのだ。

「え……? ええ。私は一度も下界に出たことがないわ」

 少し戸惑ったみたいだが、案外普通に答えてくれた。出会ったときよりも雑な口調だ。

「さっきも村長がゲカイって言ってたなぁ。外の世界でゲカイ? 下の世界でゲカイ?」

「下の世界だけれど?」

 当たり前のことを聞かれて、逆に意図がわからないという感じの聞き返しをされる。もしやこの人、聞けばなんでも喋ってくれるんじゃないか?

「あなた方は自分を神だと思っていますね」

 カナリーの静謐な声はいつ聞いても心が落ち着く。だが、その聴き方は喧嘩売ってないか。

「ええ。そうよ。違うの?」

 疑いも迷いも、ちっとも見受けられない聞き返しだった。

「私たちがいる限り人間は繁栄します。私たちがいるからこの世界は守られています。私たちこそが世界を照らす太陽なのです」

 朗読のように、感情が籠もらないのに大きく抑揚がついた声。背中が薄ら寒くなる狂気を感じる。本当にそう思っている連中がいるなんて。

 ダリアさんはささやかなため息をつく。

「……と教わってきたわ。私はこの村で一番優秀よ。だから下界へ行くこともないの。教えを検証する必要もないわ」

「あなたはそれでいいんですか?」

 哀れみを含むカナリーの問い。

 ダリアさんの後ろ姿が、そっと横へ首を振った。

「自我を持つことは許されていないのよ」

 きっぱりとした口調。理性で作られた拒絶の裏には反対の気持ちが隠れているはずだ。

「そんなのおかしいです。あなただってご自身のあり方に疑問をお持ちなのでしょう? それなら、どうして……」

 カナリーはもどかしそうに感情へ訴えかけるような強い抑揚で言葉を吐き出すが、不意に言葉がつまづいた。赤い花の中毒性を思い出したのだろう。

「あっ、いいえ。なんでもありません。私の言ったことは気になさらないで……」

「ええ」と無感動な相槌が土の壁に吸い込まれる。カナリーは気まずく黙りこくった。

 階段を下る音だけが聞こえる。空気感に耐えられなくて話題を探していたら、疑問が降ってわいてきた。

「なあなあ、ダリアさん。質問。でも、変なこと聞くから答えなくていいッスよ」

「なぁに? バストサイズとか?」

「えっ、教えてくれるの?」

 カナリーが足を止めて振り返り、不愉快そうにじろりと睨み付けてきた。俺は「すみません」と小声で謝罪して体を縮める。

「ええと。そっちじゃないッス」

「あら残念」

「この村、自殺する人、多いんじゃない?」

 途端にダリアさんは口を閉ざした。この沈黙は肯定と見て良いだろう。俺はダルさを想像して深くため息をつく。

「やっぱそうか。この環境で、逃げ場がなくて、窓が小さくて、日中でも部屋は薄暗くて。考えるだけでも鬱々としてくるな……」

「あなたもそういうところがあるわね」

 ダリアさんの言葉の響きは突き放すようだった。俺は普通に振る舞っているつもりだ。一体どこで不安定さを見抜いたのだろうか。

「俺は仕事疲れ。大したことないッスよ」

「そうかしら。手遅れになるのは一瞬よ。死ぬときは一瞬。気の迷いでもたった一瞬。いつもと変わらない風に見せていてもね」

 脅されているのか、嬲られているのか。からかい混じりの抑揚は催眠術みたいに心へ滑り込んでくる響きだった。不意に自分のコントロールができるか不安になって、心臓の脈や呼吸の音が気になってしまう。

「バカみたい。その内死ぬのに、どうして辛い思いをしてまで死にたいのかしら。ぜんぜんわかんないわ」

 フンと鼻で笑って、ダリアさんは溜まった感情を吐き捨てる。カナリーが取り下げた問いかけに、ダリアさんは答えたかったのだろう。きっと憤りをぶつける先がないのだ。自我を持つことが許されていないのだから。

 得体の知れない村の、さっき会ったばかりの女性だ。それなのに彼女を自分のことのように思ってしまった。

 俺は誰かに助けて欲しい。ヨシヨシして苦しみを今すぐポイッとして欲しい。だから、俺は彼女を助けたい。俺達がここに来たことでなんとかできないだろうか。

 一番底では、重苦しい重力を感じた。深海はこんな感じなのだろうか。そびえ立つ柱と土壁に囲まれて、見上げてようやく空の色の穴が開く。肺が一回り小さくなったみたいに呼吸がしにくい。

「この柱の中が聖地よ。私がご案内できるのはここまで」

 両開きの扉は開いていた。円柱と似てはいるが、扉だけ素材が異なる。左右の大きさも若干違った。村全体の古さに対して、扉は王宮でも見かけた最近の新しい技術だ。明らかに後から付け足している。

 カナリーは何も言わずにスッタカタと足早に聖地へ突進していった。待ちきれなかったのだろう。幼児か。

「あら。子供みたい」

「何も言わずにごめんなさい。落ち着いて見えるけど、ああいう子なんスよ。だから放っておけなくて」

 ダリアさんは「ふーん」と相槌を打つ。すべてがわかったしたり顔だ。にやりと意地悪く笑った。

「でも、あなたたちって不釣り合いよ。諦めた方がいいわ。あなたには田舎者のほうがお似合いね。私くらいが丁度良いんじゃない」

 すすすっと近づいてきた。俺は大股で後ずさった。

「もしかして、俺、モテてます?」

「そうね。嫌いじゃないわ。言いなりになってくれそうなところとか」

 マゾっ気を見抜かれているのか? 初対面には何よりも隠したい俺の恥部だ。この村に来て一番怖い体験をしたかもしれない。

「めちゃくちゃ嬉しいッス。でも、こう見えて奥手なので、まずお友達から……」

「あら。この村に住めばみんな家族なのに」

 勢いよく鳥肌が立った。

 訂正する。今度こそ、この村に来て一番怖い体験をした。頼むから怖いのはここで打ち止めにしてくれ。

「とにかく! 連れてきてくれてありがとうございました。あと、家、メチャクチャに暴れちゃってごめんなさい」

 ダリアさんは嗜虐的な笑みをふつふつとこぼした。

「ううん。お礼を言いたいのはこっちの方。あれ村長の家なの。ふふっ、いい気味だわ」

「地が出てません? それはそれで良い感じですけど」

「そう? 直感だったけれど、やっぱり私たちって相性がいいと思うのよね」

「いやぁ、最近、下ネタ控えてるんですよ。そろそろ勘弁してもらえませんかね?」

「ふーん。でも、地なんてどこにもないのよ。この村ではそういうの禁止されているもの」

 肩を竦めてニヒルに笑う。きっとはしゃいでいるのだろう。村にいる限り、仲間内に見張られずせいせい外部者と話すことはなさそうだ。こんなに楽しそうにしていながら毒々しいというのも考え物だが。

 ランプを押しつけられた。蝋燭の灯りがゆらゆらと下から俺達の顔を照らす。

「ねえ。どうして下界なんて言うのに、下がるところに聖地があると思う?」

 茶目っ気たっぷりで少しバカにしたように笑い、ダリアさんは小首を傾げる。後ろ手を組むと巨乳の肉厚な立体感が強調された。胸しか目に入ってこない。

「俺は全然わからんです。考えるの担当じゃないんで」

 ダリアさんは曖昧に笑って首を傾げると、俺を聖地へ押しやった。ボディタッチが心地良い。やめろ! これ以上触れられたら好きになっちゃうッ……! でも、突き飛ばしたり、自ら離れる意志の強さがない。無論、相手から離れてしまうと名残惜しい。

「頭使えば? 時間はたっぷりあるわ」

 重たそうに、少しずつ扉が閉められていく。あんなに狭苦しい縦穴でも、ここよりは明るくて広々していた。

「えっ、閉めんなよ! 俺、暗いの嫌いなんだけど!」

「ごめんねー、仕事だから。ちなみに中から出られないわよ。隙間もないから死因は酸欠。バイバイ。愉快だったわ」

 ほんの数センチを縫って吹き込んでくる声に向け、咄嗟に手を伸ばした。指を挟む隙間すらない。端っこに爪をひっかけたけれど、痛いだけだ。手遅れだった。

「嘘だろ! 嘘だろー!」

 俺の手からランプが滑り落ちる。運悪く頭から落ちて蝋燭の炎が消えた。

「うわあ! 詰んだ! やだ! 暗いよ! 狭いよ! 怖いよ! 出して! やだー!」

 叫んで扉を叩く。子供のときから暗くて狭い場所が嫌いだ。怖い。息苦しい。気が滅入る。寂しさと向き合わなくちゃいけない。閉じ込められたら自死一直線だ。静かになんかしていられなかった。

「あの。静かにしていただけませんか?」

 迷惑そうなカナリーの声。

 パッと周囲が真昼のように明るくなった。光がチラついて、俺は目をしばたかせる。カナリーの右手の平に光の弾が浮いていた。

「あ……暗くない……。ごめん。落ち着いたわ。ありがとう。なにそれ?」

「魔力の光球です。蝋燭と違って酸素も消耗しません。魔族なら誰でもできます。アルさんもできると思いますよ」

「ああ、やってみたいな。今度教えて。もちろん、生きて帰れたらの話だけど……」

 俺は照らされた壁面を見渡す。

 ギラギラとした固そうな壁いっぱいに模様が刻まれている。文字のような、一文で区切られた並び方をしている。

「これ文字? 絵? ぜんぜんわかんないや。初めて見た」

「私たちの古い言葉です。読んでいるので三分黙っていただけますか?」

「あっ、ごめんなさい……」

 鬱陶しさを隠さない雑な言い方だった。

 俺は小さくなって、隅っこでカナリーの姿を眺めて暇つぶしをした。実に有意義な過ごし方だ。首が長くてセクシーだとか、足首細くて綺麗だとか、ウエストがびっくりするほど細いとか、どんなにじろじろ不躾に見ても怒られない。

「なるほど……お待たせしました」

 カナリーは踵を中心に潔く俺を振り返った。ボリュームたっぷりのスカートがふわっと広がり、長い髪の毛が揺れた。

 壁を見てくれ、と、両手を広げる。

「この壁一面に魔族が地底へ住むに至った歴史が書かれています。記述を要約します。かつて人間と魔族は地上を分かち合っていました。しかし、人間の支配者が魔族を地底へ追いやりました。欺し討ちをされて、魔族は何が起こったのかわからなかったそうです」

「うーん……そうか」

 曖昧に頷く。魔族の一方的な主張に聞こえないこともない。だが、こちらはその主張さえ知らなかったことも確かだ。

「弁解させて欲しい。俺達は、魔族は人間を脅かすものだから排除せよ、と教わっている。だが、王宮は知りながら隠していたわけじゃないと思う。隠すなら第二騎士団が俺達をバックアップするのはおかしいだろ?」

「つまり、これが地上から意図的に消された歴史なのです。この歴史を消して人間を繁栄させたのがこの村の人々なのでしょう」

「それが、まだ見ぬ夜が来ぬようお日様を照らし続けよう、ってことか」

 神が人を作るのか、人が神を作るのか。神であるための努力は、人の道を外れるほどに苦しいのだろうか。苦しいからといって美しいとも正しいとも限らない。学問には明るくない俺が考えてもしょうがないが。

「しかし、この村の人はこれが読めるのかね?」

「わかりません……が、隠している以上、内容を把握していることは間違いありません。まだ魔族と人間がわかれて間もない頃から伝承されているのでしょうか。この文字を読める者が他の人類に伝えることは避けたかったのだと思います」

「そうか。魔物にも色々いるとわかっていたら油断はできないな」

 レイヴンの母親は人間につけられた傷で死んだ、と言っていた。この文字を読める者の可能性を見いだして、村の人々がやったのだろう。

「恐れていたのは、つまり……この状態だ」

 脳味噌に陽が灯る。尻尾を見せて逃げていた現実がやっと掴めた。カナリーは正しかった。俺はカナリーを信じてよかった!

「あぁ、やっと見つけました……お父様……見つけましたよ、私……」

 カナリーは膝を折って地面にへたり込んだ。光球がふわりと浮かぶ。胸の前で両手を組み、唇を噛みしめて、涙を流していた。

 手から離れた光球は頼りなく点滅し、ゆるやかに消えてしまった。

 暗闇の中、カナリーの震えた息づかいが聞こえる。俺は隣に座り込んだ。落ち着くまで少しだけ待とう。すぐそこに信用している誰かがいるという実感だけで、暗闇もさほど怖くなかった。

 しばらくして、静かになった。俺はそろそろ我慢の限界だ。自分で選ぶのよりも早く死が近づいている。酸欠で死ぬのはどんな感じだろうか。俺にはちっとも想像ができなくて怖い。直近未来の話をしてもいい?

「なあ、どうやって出るかね」

「それなら簡単です」

 カナリーは濁点いっぱいの声だった。軽く深呼吸と咳払いをして仕切り直す。いや、酸素が……遠慮してくれ……。

「この柱はオリハルコン製です。壊せばいいんですよ」

「あっ。見覚えある気がしたけど、これオリハルコンか! でかすぎてわからなかった。じゃあ人間にはどうにもできないな」

「魔物の姿になればなんとでもなります。ただ、ちょっと狭いから資料を傷つけないように気をつけないと……ですね」

「一番良いのは入り口を叩く、次点で資料もろとも叩くって感じだな」

 カナリーはまだ灯りをつけてくれない。動く気配もない。顔の腫れを気にしているのだろうか。酸素、まだあるのかな。心臓がドキドキしてきた。

「もう一つわかんないんだけど、なんでこんなところにこんなもんがあるんだろうな」

「ここまですればきっと誰かが見てくれるはずだと考えたのかもしれません。壁の文字も、地上への突き出し方も、制作者の執念を感じます。この文面があるからこそ、地下には他の資料が残らなかったのかもしれませんね」

「見つけた誰かが隠した。本来なら隠しにくいデカいモニュメントでも、ほとんどが埋まった形だとわかんないよな」

「ええ。それに、これだけのオリハルコンを持ち出したとなると大事件になるはず……」

「うん。こっそり持ち出したとしたならば、持ち出しが禁止されるなあ。こっそりって量じゃないけど」

「適当に管理をしていたら剣一本分程度はわからないかもしれません。ですが、これだけの量となると目視でわかるのでしょうね。ああ……資料が欲しい……」

 カナリーは悔しさを押し殺して呟く。

 生欠伸が出てきた。自分の体の中で何かが起きている気がする。

「俺、新鮮な空気を吸いたいよ」

 再びの光球に目がクラクラして、慣れるまで何度か瞬きをした。ダメだ、まだ光球の影が丸く焼き付いている。

 魔物の姿か。人間の姿にコロッとほだされていた俺は幻滅するのだろうか。

 カナリーが背中を向けた。そんなに強がられても寂しい。

「では、その……魔物の姿になるので、せ、背中のボタンを外していただけますか?」

 声が上ずって震えていた。

 俺はあまりのことに後ろにのけぞった。

「な、なんでっ!? 服を脱ぐの!?」

 ぜんぜんエッチな雰囲気じゃないよね!? 服を脱ぐ必要って着替えるときか水に濡れたときかエッチなときしかないよね!?

「このまま魔物の姿になるとお洋服が破れてしまいます!」

 俺の動揺に呼応してカナリーも早口だ。

「だから裸に?」

「あ、あまり言わないでください。男性の前で服を脱ぐなんて、し、しかもこんな狭くて二人きりの場所でっ……はうぅっ! は、恥ずかしくなってきちゃったじゃないですか! あんまり意識させないでください!」

 噛みつくように振り返ったカナリーは、俺の肩を思い切りバシーッと叩いた。ご褒美なスキンシップだ。

「あっ、あ、た、叩いちゃいました。ごめんなさい。私、どうしてこんなこと……」

 自分でしたことが信じられないのだろう。カナリーは口を押さえて息を飲み込んだ。

「大丈夫。ちょっと嬉しかった」

 一転して、ドン引きの冷たい目を向けられる。カナリーの顔色は赤くなって青くなって白くなったわけだ。なんて忙しい。

「アルさんはいつもふざけるんですから……」

 胸に手を当てて息を整えるカナリー。少し眉が下がっていた。真っ直ぐに俺を見つめる瞳は吸い込まれそうな輝きに満ちている。

「アルさんは優しい人です。私がどんなに酷いことを言っても、酷い態度をとっても、一度も怒りませんでした。あなたのやったことは、あなたが悪いのではありません。あなたが手をかけた者の娘として言います。私はあなたを許します」

 どんな言葉をかけてもらっても、彼女に対する引け目や罪悪感はこれからも変わることがないだろう。だけど、気持ちは伝わった。努力を受け入れてもらった。生真面目すぎる言葉が、俺の苦しい足枷を一つ溶かして消した。涙が頬を滑る感覚に驚く。自分が泣いていたことに気がついた。

 くしゃっとカナリーの眉が寄った。かぁっと頬に朱が差し、耳まで真っ赤になる。

「私はあなたを信用しています。だから、その……はぅぅっ……」

 カナリーは絞り出すように体を捻る。涙も止まるくらいに不穏な空気を感じていた。

「ぼ、ボタンを外したらすみやかに後ろを向いて耳を塞いでください! 私が背中を叩くまでこっちを見ないで欲しいです」

 だれそれを殺してこいって言われる方が圧倒的に楽だった。そんな信用されてもさあ、俺は健全な男児だから困っちゃうよ。

 ん? 健全な……男児……?

 俺は自分の男児が男児たることを体感した。おい、健全じゃねえか! あんなに性欲なかったのに! さっきまで頭は泣いてたのに!

「よしわかった! 後ろを向いてくれ。俺を見るなよ。終わったら俺は後ろを向くから」

「と、当然です! 後ろを向いたら、絶対に終わるまで見ちゃダメですよ! 耳も塞いでくださいね!」

 カナリーの背中にホッとした。さらさらの長い髪の毛をふわりと持ち上げて、肩にかけて前に流す。髪の毛から漂う花のような香りが鼻孔をくすぐる。顔を埋めたい。

 ドレスの合わせ部分は首筋から直線に下りていた。パールのボタンが等間隔にきっちり並んでいる。はあ? ボタン、多過ぎねぇか……? どこまで外せば脱げるのか見当がつかない。全部やるの?

 俺はボタンに手を伸ばし――手がうまく動かない! ボタンをとめているループ部分がくねくねして逃げてしまう。指に力が入らないし、震えるし、ぜんぜん外れない。

 すべすべとした白い首筋から体温の残る甘い香りがする。俺の鼻息がかからないか心配になって息が浅くなった。目が回りそうだ。

「ご、ごめん。緊張して手が震える……」

「は? なに緊張してるんですか! これは仕事です! 命がかかっているんです! 服くらいスマートに脱がせてください!」

「やめてくれー! 余計にうまく行かない気がするようなこと言わないでくれ! そっちだって緊張してるだろ!」

「恥ずかしいだけですっ!」

「ダメだ! ごめん、一旦落ち着かせて!」

 癇癪ではない。混乱とプレッシャーに飲まれた。俺は剣一本で魔王を倒した男だろ! なんで自分のシモの剣はまともに扱えないんだよ!

 指が合わせの部分にひっかかり、力を込めていたので軌道がぶれた。うっかりカナリーの首筋をかすってしまった。

「ひゃんっ! へ、変なところ触らないでください!」

 子猫が鳴くような声だった。ぴくん、とカナリーの肩が跳ねて、内向きに丸まった。

「ごめんなさーいっ!」

 俺は咄嗟に謝って両手をあげて横転して背中を丸めて胎児のポーズ。もういやー! なんでこんな着脱の面倒な服を着ているんだ! 可愛いけど! 可愛いけど面倒! カナリーそのもの!

「は、早くしないと息ができなくなってしまいます。私、お洋服破きたくないですっ。もういいです、自分で……で、できないっ!」

 カナリーは唸りながら背中に手を回すが、届かない。肩甲骨周りはガチガチのようだ。絶妙にダサイ。俺は思わずテンションの低い笑いがこぼれてしまった。

 いつまでも転がっているわけにはいかない。俺はため息をついて体を起こす。

 ギギギ、と、軋む音がした。隙間から一筋の光が漏れてくる。それと共に、声もなだれ込んできた。

「のあぁっ! 重たいンなぁ!」

「もう一息! もう一息だ! 頑張ろう!」

 耳がホッとする声。体の力が抜ける。光も友人の姿も、眩しくて目を細めた。

「開いたあ。重かった」

 膝に手をついて肩で息をするレイヴン。

「やあ。援軍に来たよ」

 息一つ乱していないカイト。

 今日は騎士団の刻印がされた鎧と隊長の赤いマントで重そうな正装をしている。眼鏡はしていない。何気なく片手を上げる姿はこれ以上ないくらいに爽やかだ。

「ありがとうカイト! なんでここにいんの?」

「ター君から出動要請が来たんだ。書類作りで手間取ってね。出発は二日遅れかな? 無事に合流できてよかったよ」

「えー、俺なんもター君に言われてないよ。けっこう暴れちゃったけど大丈夫?」

「あー、君たちは放っといても大丈夫ってことだろうね。ごめんね。暴れちゃっても問題ないよ」

 背筋を伸ばしてカイトはカナリーにむき直る。

「第一騎士団長のカイトと申します。カナリーさん、ですね? 研究は進みましたか?」

「お会いできて光栄ですわ、カイトさん。ええ。この……オリハルコンの塔? が探していた資料です」

 カナリーはなんて言うか迷ったらしく、塔と呼びながらも小首を傾げていた。

「よかった。今後ともどうぞよろしく」

 それだけで惚れないか心配になる笑顔を浮かべて簡単に済ますと、カイトは改めて俺と視線を合わせる。

「今回は王国の権威が必要な案件なんだ。シンプルに言うと集団摘発。茶葉を解析して、危険物に指定したんだよ。ター君がね」

「最高! ター君マジ有能! あいつらマジでヤバくて怖いんスよ! まとめてしょっ引いてください! 騎士団さん!」

「ね。文化的側面を考慮しても見逃せない、って可決されたんだ。きちんと調査して管理しないといけないね」

「うっす、オナシャス! って、騎士団長がこんなところでのんびりしてていいの?」

「人手は十分だからね。それに、頑張った友達は直接労いたいじゃないか」

「お前もな! ありがとな!」

 嬉しくて肩をバンバン叩く。カイトはへらへらとしまらない笑い方をしたが、すぐに仕事用のシャキッとした表情に戻った。

「ここまでレイヴンが案内してくれたんだ。ファインプレーだよ」

「なっ。三人で来てよかったでしょ?」

 ようやく息が整ったレイヴンは平らな胸を張る。その両手は人間の形ではなくて、獣の丸っこい形になっていた。

「ありがとう。助かったよ」

 帽子を取って頭を撫でる。

 大きく目を見開いて俺を見上げるレイヴンの、三角形の獣耳がぺたんと寝ていた。再び帽子をかぶせる。レイヴンは俯いて帽子の縁を握り、ぎゅーっと力一杯下げた。縁で顔が見えなくなったけれど、きっと照れているんだろうな。

「さあ、仕事の続きだ。三人には証言者として話を聞かせてもらわないとな」

 きびきびとした足取りで先陣を切るカイトに続き、俺、カナリー、レイヴンと続く。

 カナリーがカイトに経緯を説明している。かなり風が強いらしく、ゴウとうなる音が聞こえる。声をどこか遠くに聞きながら俺はなんとなく相槌を打っていた。

 階段を上りながら暮れ行く丸い空を見る。這い上がれそうな気がした。

 村は来たときと異なる風体になっていた。

 あちこちの家から出てきた騎士団員が「ありました!」と袋や缶や木箱など押収し、地面へ順番に並べていく。あまりの量に、三人もいる書記が追いついていなかった。

 村人は一カ所に集められていた。それでも騎士団員の方が多く感じる。母親にすがりつく子供の泣き声。男性は俺が殴った人たちも含めて全体の二割くらいだ。小さい集落なのに髪、目、肌の色はまちまちだった。そして十割が白い服だった。

 体が震えた。この村はヤベェ。暮らしが穏やかかどうかもわからない。だけど、身の回りを荒らされる気分は想像したくない。

「どうして私たちがこんな目にあわなくちゃいけないの?」

 女性の声が聞こえた。同情的な気持ちになるが、止めようとも思えない。

「夜になる前に終わらせよう! 一雨来そうだ! 輸送の馬車は明朝! 記載が終わったものからまとめていこう!」

 カイトは見張りの団員に対応を任せて、一瞥もせずてきぱきと進めている。時間に合わせて進行しなくてはならないから、相手をする余裕もないのだ。表情は鉄の仮面を被ったように厳しく凜々しい。だからこそリーダーとして安心できる。俺にはこういうところがないのだ。

 俺は、自分がどうしたいかもわからず戸惑って立ち尽くしていた。

 カナリーなら何か答えを持っているんじゃないか? しかし、彼女も切なく眉を寄せていた。直視し辛いのか、足下へと目線を落としている。レイヴンは渋い顔だ。心の中で両親に問いかけているのだろうか。

 カイトについていけば何も考えなくて良い気がする。でも、俺はカナリーやレイヴンと同じ顔をしている。二人とも俺と似た気持ちなのだろう。ならば、俺はこのグループ野中にいたい。誰のためにならなくても、何ができなくても。

「恩知らずが!」

 村長が喚いた。頬に当て布をしていた。

「私たちが人間を守っていたのに!」

「下界の連中が神なくして繁栄できると思うな!」

 感情の一体化した怒声が、雪崩のように上がる。

 自分たちが神だからこそ、良いとは言いがたい環境に耐えて彼らの文化と思想を守ってきたのだろう。もし神であることを否定された場合、価値観の変化に耐えられるのだろうか。ここに来たときの恐怖が正体のわからない不安へと変わり、徐々に膨らんでいく。

「静粛に!」

 よく通るカイトの一声。村人は怯んで口をつぐんだ。じっくりと村人の顔を見渡してから、カイトは静かな口調で諭す。

「私たちはこれ以上の武力行使を望みません。何卒ご協力をお願い致します。ご協力いただけない場合、一つずつ拘束を強めていかなければなりません」

 事前に指示をされていたのだろうか、騎士団員が縄を出した。

「手を出してください」

「ふざけるな!」

 村長は怒鳴り、俺にやられて傷だらけの男達が前に出る。しかし、騎士団員が黙って剣を抜いた。

 彼らは黙って手を差し出した。

 俺はダリアさんを目で探す。白い服の一団に紛れても、おっぱいには引力があった。他の人と連結させるように、彼女の細い手首に紐が巻かれていく。

 目が合った。不安も悲しみもない、諦めの無表情だった。

 ふい、と目が手元へ逸れた。俺には何も期待していないのだ。

「……これでいいのか?」

 彼らを助けたら、地上で殺した魔物への償いになるかもしれない。でも、飛び出していけない。彼の主義主張や暮らしは俺達にとってマズいものだ。

 俺はどうしたらいいんだ。

 教えてくれよ、カナリー。

「仕方ありません」

 カナリーの声ははっきりしていた。

 彼女は決定を下す立場だ。決定は感情だけで下せない。だからこその厳しい声。

 ならば俺も、振り上げそうになった拳を押さえよう。誰を助けたって、カナリーへの償いにはならない。

「ミーはわかんない。対立なんて端から思い込みじゃないの? こうやって悪いことが連なってくようにしか思えないよ。すごくすごく怖いんだよ……」

 レイヴンの静かな声が震えていた。

 カイトはきっと辛いはずだ。責任が重く、人に恨まれる、嫌な仕事だ。傍観者になってわかった。こんなの、一人で抱えられるものじゃない。

 ふと、鼻先にくすぶった臭いが漂ってくる。自分の額に髪がへばりつくほど冷や汗をかいていたことに気がついた。

「んあー! 煙だ! 火ぃ!」

 レイヴンは間抜けた悲鳴をあげながら建物を指さした。

「蝋燭が倒れて燃え移りました! どこかに水はありませんか!」

 中から飛び出してきた騎士団員の、ガラガラに割れた悲鳴。家の隙間という隙間から立ち昇る煙は白から黒に変わりもうもうと増えていく。扉の奥では火がチラついていた。

「火事だわ」

「なんだ。火事か」

 さざ波のような村人のどよめき。しかし、声は不釣り合いに落ち着き払っていた。

 俺はとっさに近くの家に飛び込んだ。捜し物で荒らされた屋内の瓶の水は僅かだった。水差し一杯で消える火ではないだろう。とりあえず持っていったけれど、その頃には何人かが困った顔で瓶を持ってちょろちょろと焼け石に水な消火活動をしていた。

「小便ほどの無意味な消火……」

「こんなときにふざけるんじゃない!」

 近くにいた騎士団のおっさんに頭をひっぱたかれた。誰だよお前! 下っ端か?

「ふざけてない!」

 言葉が口をついて出てきただけだ。いきなりひっぱたかれて腹が立ったから言い返す。

「余計なお喋りする暇があるなら考えろ!」

 おっさんは更に大きい声で俺の言葉をかき消した。そして次の家へ水を探しに行った。

「……それもそうだな」

 嫌なことを考えないように、自分の嫌だって気持ちから目を背けるために、俺は言葉遊びに意識を傾けていた。よく知らないおっさんに言われたとおりただの悪ふざけだ。

 熱が下がるみたいに冷静になってくる。すると、周囲の景色が見えてきた。

 慌てる俺達を尻目に、村の人たちは異様なほど落ち着いていた。

 小さくなっておろおろするばかりのカナリーが「あっ!」と声をあげた。

「わかりました! よく火事になるから家と家の間が開いているんです。ほら見て、地面にも何もありません。芝生も少ない。そうすれば火が飛び移らないんでしょう。燃やし尽くして建て直すのではありませんか?」

「あぁ! なるほどね! じゃあ、かえって放っておいた方がいいのかな?」

 カイトはひとまとめにした村人へと顔を向ける。村人は不自然な沈黙を返す。

「返事がないのは了承ととりますね。ちなみに、川はどっち側ですか?」

 理屈がわかって一安心してしまったのか、カイトは平時の落ち着きを取り戻していた。

「遠いから諦めた方がいいですよ」

 平坦な声音。答えたのは一人だけ。村人達はダリアさんを白い目で見る。

 ダリアさんの声につられるようにして風向きが変わる。家から昇る煙が一瞬だけ渦巻いた。

 ふわりと火の粉が飛んだ。間の悪いことに、赤い蛍は押収した家々の茶葉に止まった。

「あっ」と、声をあげたのは俺だけじゃない。何人かの声が重なっていた。

 湿り気のない茶葉は軽々と燃えた。灰色の煙が虚空へ筋を描く。さっきからずっと焦げ臭いけれど、茶葉の燃える香りは花の奥底に甘さが残る。残念そうに「ああ」と村人達がさざめいた。

「大変! 煙を吸わないで! 中毒症状を起こします!」

 どの音にもかき消されない良く通る声でカナリーが悲鳴を上げる。

「煙を吸うな! 頭を低くしろ!」

 カイトも力強い声で繰り返し、自ら真っ先に地面へ伏した。上司命令には無条件で体が反応するらしく、騎士団一同は慌てて口を押さえてしゃがみこんだ。

「だーっ! ミーが行くっきゃねぇー! 半分だって耐性あんだぞ! なめんなよ、なめんなよ! くらえー!」

 わめき散らしながら外套を脱ぎ、炎に向けて駆け出すレイヴン。外套をバサバサと茶葉の炎に叩きつけた。叩きつけるたびに消えたようにも見えるが、持ち上げると炎がもわっと膨らむ。飛び散る火の粉は今にも服に引火しそうだ。

「やめとけ! 危ないだけだ! 絶対にもうやるんじゃねえぞ!」

 俺は我慢できずレイヴンの首根っこを掴んで軽々引き寄せる。恐ろしさで心臓が変な脈の打ち方をしていた。

「言い方きついって! ダメだこりゃ! ごめん! ミーには無理だった!」

 茶葉のすべてに火がついている。その火が次の家に回ってしまった。止めにいくには火元が強すぎる。

 もう手遅れだ。背筋が冷たくなった。

「逃げましょう! カイトさん!」

 カナリーが声を張り上げる。

 しかし、返事はなかった。

 代わりに激しい咳が聞こえた。こほこほ。ごほごほ。地面に伏した騎士団の人が咳き込んでる。ただ伏しているのではなくて、背中を丸めて苦しそうにしている。うめき声やえづく声も聞こえてきた。

 ヤバい。火事の煙か。それとも、レッドドラゴンの茶葉の煙か。どんな効果が出るのか知らないけれど、ダメージを引き摺り続けている人のことは知っている。

 火が迫っている。騎士団は動けない。俺の体は一つしかない!

「森でお花を育てよう、私は白い服を着よう、皆でお日様を照らし続けよう……」

 村人が誰ともなく歌い出した。すぐに合唱になり、地面を踏み鳴らして踊り始めた。

「煙でハイになってんだ……」

 レイヴンが俺にしがみついてきた。狂気の光景に俺はちびりそうだった。

「ああ! もう!」

 カナリーの追い詰められた悲鳴と同時、布がバツンと弾ける音がした。

「お洋服を作った方、ごめんなさい! 許して! このドレス、大好きでした!」

 生地やレースのぼろきれを引っかけてカナリーの四肢が変化していく。両手は羽根に、体は艶やかな羽毛に覆われた。

 闇を纏った深い紫色の大きな鳥。

 記憶の枝葉が揺さぶられる衝撃。ふらりとして俺は額に手を当てる。思い出した。魔王は鳥だ。カナリーよりも大きな黒い色の鳥。よく似ているからこそ、改めて実感した。確かに俺は彼女の父親をこの手で殺した。

 カナリーは高く飛び上がった。大ぶりな羽ばたくと気流が乱れ、騎士団の方向へ流れる煙は上方へと散って薄まる。

「あっ」とレイヴンは帽子を押さえる。メチャクチャな風の流れに、髪やら服やらあちこちがパタパタする。

 俺はぼんやりとカナリーの姿に見とれていた。必至なところ申し訳ないが、すらりとしたシルエット、しっとりとした毛並み、揺れる尻尾、すべてが綺麗だ。

「俺、殺したんだよ。あれと同じやつ。殺したんだよ。あんなに人間のために必至で飛んでる鳥。殺したんだ。同じやつを」

 ぼろぼろと涙が出ているのは、煙が目に染みるせいではない。きっと最初からそんなことはしたくなかったからだ。涙で目の前が滲んでようやく現実へのピントが合ってきた。見たくもねぇ世界。

「カナリーは生きてる! それだけ見ろ!」

 レイヴンは俺の手を握った。いつの間にか、人間の手に戻っていた。小さくてふわふわしているけれど、少し筋っぽい。温かく感じるのは俺の手が冷たいからだろう。

 すっかり忘れていた。カナリーの父親を殺したのは俺だ。しかし、カナリーを殺していないのも俺だ。何も見たくないなら殺して忘れてしまえばいい。でも、俺は殺さないことを選んだ。俺は自分で選んだ。カナリーを殺したくない気持ちに従って、俺が選んだ。

 炎は収まることがない。悪戯のように引火して大きくなっていく。草っ原にも炎は回っていた。群れて生えるレッドドラゴンは、端に火が付けば連鎖して燃える。

 辺りは火の海だ。季節柄、肌寒いはずなのに今は熱い。一体どれだけ燃えれば気が済むのだろうか。

 騎士団は這って動くのが目一杯だ。炎が近くて危ない人はできるだけ動かしたが、俺とレイヴンの二人でできることなんか微々たるものだ。もはやどこが安全かすらもわからない。

「まだ見ぬ夜が来ぬよう、皆でお日様を照らし続けよう……」

 歌って踊っている村人達には関わりたくないので放っておいた。

 小さな子供は泣いているけれど、その子を抱える母親は踊っている。七つくらいの子供は既に村人の自覚があるのか、親の手も借りずに近い年の子供と一緒に踊っていた。

「なんであの人達平然とあんなことしてられるの? もう聞きたくないよ……!」

 煙が染みるのか、泣きながらレイヴンが呻いた。

「審判の日だ! 夜が来る!」

 村長が叫んだ。

 列を成した村人は歌いながら火の中へと進んでいく。歌っていた人たちも、焼かれてからは悲鳴になる。それでも村人は次々に自ら焼かれにいった。

 地獄の絶叫。人間の焼ける異様な匂い。蝋燭のようになった人間が悶え苦しむ姿。

 胃が痙攣した。喉に酸っぱいものがこみ上げてくる。一足先にレイヴンが吐いていた。俺も吐いた。吐いたからって目の前の現実は流されていかない。吸う空気がともかく臭い。あまりの異臭に脳味噌がチリチリ焼かれる。

「嫌ぁ!」

 濁点まみれの汚い悲鳴だった。現実味のない現実から意識が逸れる。俺はここに立っている。無力さで自己が乖離してしまったが、そんな場合じゃない。袖で口を拭う。顔を上げろ。嫌でも見ろ。

「私まだ死にたくない! 嫌! 死にたくないっ!」

 ダリアさんは列から外れようと体を捻っていた。だが、後ろの怪我した男が押さえつける形で引き留めている。

 俺の足は既に動き、背負った剣を引き抜いた。男の脇腹へ剣の峰を当ててダリアさんから引き剥がす。斬りやすく浮いた手元の紐に向けて振り下ろし、振り上げ、完全に前後との紐を切る。ごめん、ちょっと手首を斬ってしまった。

 ダリアさんと目が合った。垂れた目が、本当に? と、見開かれていた。死にたくない意志があるならなんとしても生きてくれ。

 ダリアさんを適当に引っつかみ、レイヴンの方へ放り投げた。

「村のしきたりを邪魔をするな!」

 歌を中断して、男が怒鳴る。

「村のしきたり? したり顔で言うことか? 自我を捨てなかった彼女の意志、見捨てられるか?」

「下界の屑に何がわかる!」

「なんもわかんねえよ」

 わからないけれど――もしかすると、彼らにとってのダリアさんは、俺やスパロウにとってのクーだったかもしれない。そんな想像が脳裏を過った。だからこそ、切り捨てるのは容易かった。

「好きな子なら幸せを願えよ」

 俺は脅しのつもりで剣を構えた。体に傷をつけないつもりだった。

 でも、男から斬られに突っ込んできた。首へするりと刃が滑り込んだ。

 派手に血しぶきが飛び、男は空を向いて地面に倒れた。肉を割るどしりとした質感。殺した手応えが手に染みこんでくる。

 信じられなくて俺は立ち止まってしまった。村人は男の死体を引き摺って、再び火に向かっていった。

 いつの間にかダリアさん以外の村人は半死半生になった。騎士団との違いは、焼けているかいないかだけだ。苦痛のうめき声は生きている証拠だ。

 何度もしつこく殴られるように記憶が蘇ってくる。魔王城で俺は同じ事をしている。

 だからこそ俺は今、殺さなくちゃいけない。そうじゃなきゃ俺はなんのために魔王城で殺してきたのかわからない。

 俺は、息のある焼けた村人を一人ずつとどめ刺していった。

 放っておけばみんな死ぬ。殺す必要はない。だけど、放っておくことができなかった。このまま息絶えるまで、どれくらいかの時間を苦しむのは見たくなかった。良いことをしたと自信を持って言えない俺の独善。他の誰にもさせたくない汚れ仕事。

「これで全員か?」

 焼け焦げた死体。聞こえる呻き声は騎士団のものだ。もう、死に苦しむ人は居ない。

 これは善意でも悪意でもなく、やると決めてやったことだ。この場に満たされた心の人なんかいるわけないから、俺のちぎれそうな気持ちもきっとみんなと一緒だろう。

 炎は今だに止まず、返り血みたいな色で煌々と燃えている。

 羽ばたく音が止まった。影が俺に重なる。

 見上げると、人の形をしたカナリーが真っ白な肢体を晒してゆっくりと落ちてきた。俺は強張って手から離れなかった剣を地面に落とし、両手を広げてカナリーを受け止める。

 彼女の顔は蒼白で強張っていた。でもホッとした。どんなに怯えられても、彼女が戻ってきてくれるなら俺は大丈夫だ。

「なんであんなことしたんですか」

 ピンと張り詰めた弦のように彼女は小さい声で言った。

 あんなこと。殺したことだろう。彼女は上から俺をずっと見ていてくれたのだ。

「誰かに恨まれるのは俺だけでいいんだ」

「一人で格好つけないで下さい」

「もっと優しく言ってよ」

「甘え下手」

 ぜんぜん優しくない。一呼吸おいて、カナリーはぽそりと付け加えた。

「……私も、ですが」

 引きつっていた顔の感覚が戻ってきた。口元がつり上がる。指先に血が巡ってきた。俺の緊張が緩やかにほどけていく。大丈夫、記憶はずっと繋がっている。忘れていることはない。

 カナリーは遠い目をして空を見る。

「雨が降りますよ」

「そっか。もっと早く降って欲しかったな。なんでもっと早く降らないんだよ。雨」

 俺が苦情をひねり出した頃、大粒の雨がぽつぽつと降り始めた。ほんの僅かな間に大雨になった。


 ***


 観光パンフレットに乗っている階段は今日も賑やかだ。少し先の公園では、馴染みのベンチが偶然開いていた。俺達は自然に並んで座った。

「はわぁ……おいしい」

 クレープを囓って、カナリーは頬に手を当てた。その一口が存外大きい。頬が落ちそうな笑顔に、俺もつられて笑っていた。

「本当に甘い物好きだよね」

「だって、幸せになりませんか?」

「ああ。なんか、幸せになる物質が脳味噌から出てるんだってさ。疲れもとれるってター君が言ってた」

「そこは魔族も人間も一緒ですね。騎士団の皆様も、こんな風に休めていればいいのですけれど……」

 遠くを見るように目を細めるカナリー。

 村から王都まで帰ってきて、早二ヶ月が過ぎていた。今回は流石に素直に医者にかかっている。

「お医者さんいわく集団パニックだっていうし、一時的なものだから体に影響ないって。そんな心配しなくて大丈夫だよ」

「カイトさんが結婚を控えているから休めないとも聞きましたよ」

「まあ、周囲を不安にさせられないってのはあるかな。でも連中だって生半可じゃないさ。自分の体にとって一番いい結論を出せると信じようよ」

 こくんと頷いて、カナリーはクレープを黙々と食んだ。俺はコーヒーを飲みながらぼんやり空を眺める。

「ダリアさんはまだ病院から出てきませんね。面会もできないので、心配です」

「そうだなぁ……。でも、いい病院だし、最終的には本人が生きたがっていることを信じるしかない。クーの母親が同じだったからさ、手紙を出してみたよ。なんかいいヒントくれるかもしれない」

「ああ。皆さん、元気かしら。またお会いしたいです」

「一つ前の手紙だと順調そうだったよ。近々報告に行こう」

 王都に帰った直後に結末だけを報告したら、こちらが辛くなるくらいの謝罪と感謝が返ってきた。

 スパイに来ている村人は、放っておいても赤い花の中毒症状に耐えられない。周囲の補助がなければほとんどが自爆をしていくだろう。故郷も間者も一掃されたら、クーの一家は村の影に怯えずに済むのだ。

 ふいに、カナリーはじっと俺の顔を見つめた。口の端にクリームがついていたから、俺は自分の口の端をトントンと指さす。カナリーは慌ててハンカチで口を拭き、膝の上に置いた。

「どうかした?」

 カナリーはもじもじと肩を窄める。

「あの。コーヒー、一口いただけますか?」

「あぁ、新しいの買ってくるよ。待ってて」

「あっ! いえ、その、そういうのじゃなくて……ダメですか?」

 恥ずかしそうなままに小首をかしげて見上げられる。飲み物が必要というより、そういうことをやってみたかったという感じだ。

「……どうぞ」

 俺はうやうやしく両手でコーヒーを差し出した。

 ささやかな一口の後、カップの縁についた口紅をハンカチでぬぐい「ごちそうさまでした」と返された。ただの回し飲みなのに、俺と同じカップに口をつけたという事実にドキドキしてしまう。

「よければ一口食べませんか?」

 今度は食べかけのクレープを突き出された。断面から見るとクリームもフルーツも分厚い。急に恥ずかしくなってくるのはなぜだろうか。俺達は別にいちゃつくような関係ではない。顔が熱い。

「今日はなんか緊張することばっかり言うね。どうしたの? 庶民ごっこ?」

「確かに楽しいごっこ遊びですね。アルさんも甘い物を食べて幸せになってください」

「そう言って貰うのは嬉しいけど、俺はカナリーが幸せなら十分だから」

 どうしても罪悪感は拭えない。だけど、今は素直にそう思う。

 言葉に詰まってカナリーは目を伏せた。もしかすると、親に同じ事を言われたことがあるのかもしれない。

 一息の間、悩む。余計な言葉を飲み込んで小さく頷くと、優しい視線が噛み合った。

「それでも、あなたが幸せじゃないのは悲しい気持ちになります」

 言葉が胸の辺りにじわりと温かく染みていく。だから何があってもついていくと決められた。その言葉をかけられただけで、俺は多分、すごく幸せだ。

「ありがとう」の言葉は小さな掠れ声になってしまった。目頭が火照る。でも、俺は泣かない。彼女の前で泣き虫を晒すのは格好付かないからだ。

 自分をごまかすためにクレープにかじりついた。餌付けをされるのがこんなに幸福だとは思わなかった。情緒がぐちゃぐちゃだから風味はよくわからなかったが、幸せの味がした。

 カナリーはにこにこしながら俺の顔を見ている。照れくささと恥ずかしさで頬がムズムズしてきたので、どうにか話を逸らしたい。クリームで甘い気がする口の周りを指で拭いつつ、本題を思い出す。

「しかし、ああいう研究ってスッと通るものなのかな。価値観がひっくり返るものだろ」

「普通ならばそうでしょうね。ターミガンさんの根回しとアルさんのお力だと思います。人間の皆さんも、もしかするともっと前から調査されていたのかもしれません。そうでなければ、話を聞いていただくのも、信じていただくのも、もっと大変だと思います」

 と言ってから、気がついたように「それに、そうでなければ、資料を消す必要も、隠す必要もありませんしね」と小さく付け足した。

「魔物を地下に追いやった人間が悪い、なんて話、すんなり受け入れるのは難しい気がしたんだけどな。本当によかったよ」

「……そこは言葉の解釈なので」

「え? 脚色したの?」

「滅相もありません。ただ少し、差し障りのない程度に文面を選びました」

 口元を隠しながら視線を逸らすカナリー。じんわりと冷や汗が伺えた。

「さすが姫。政治家だな……」

「いえ、まだまだです」

 責めてはいないが褒めてもいない。それなのにカナリーは素直に嬉しそうだった。

 そして、フッと息を吐き、一本のしなやかなバネみたいに背筋を伸ばすと、体に力を込めた。

「この後、故郷に戻って王位を継がないとなりません。ついてきていただけますか?」

「もちろん。どこまでもついていくよ。そしたら今度こそ勇者って自白する」

 そうしないと話がややこしくなる。だけど、それまでは静かな時間を過ごしたい。

「ところでさ、そのハンカチって俺のじゃない?」

 多分、ジェラードでべちゃべちゃになったときに渡したハンカチだ。見覚えがある。

「え? ……はわっ!」

 慌ててハンカチを広げるカナリー。

 気まずそうに口元だけ笑ませて、カナリーはしずしずとハンカチを畳んだ。ごまかすように困った笑みを浮かべる。

「その……洗ってお返ししますね」

 そういうところある子だよね。知ってた。どっと肩の力が抜けて、体がへにゃへにゃになるくらい笑ってしまう。そんなに笑う必要はないけれど、こんなに緩い気持ちになったのは久しぶりだった。

「ちゃんちゃん!」

 すぐ近くでハープの子気味がいい音色と茶化す声がした。

 今夜も夢見は悪いだろう。でも、起きているときに笑えるならば、十分だ。


 end



【あとがきや設定書など】