長編ライトノベル「勇者の鬱」2章

 


【二章】勇者と魔王の邂逅、そしてデート。



 俺は図書館に来ていた。張り込み作業になるからレイヴンは別行動だ。「ミーは吟遊詩人らしく町中をフラフラ流してくるから、ユーはきっちり宿に帰ってくること」と、念を押されてしまった。

 前回の席に、まだいた。カナリー。せっかく見逃したのに逃げないから俺がやらなくちゃいけなくなる。少し腹が立つ。

 今日もフリフリとした動きにくそうな服を着ていた。ウエストはビスチェできゅっと締めていて、袖はヒラヒラ、靴の底は厚い。戦うことだけではなく、走って逃げることさえも難しそうだ。可愛いけど。

 俺は気配を消して彼女の様子を見守っていた。本を読み、片手でメモを取り、本棚と机を往復することの繰り返し。パラパラとめくるだけで理解できる速読家なのだろうか。机と本棚との往復のペースはせわしなく感じる。この早さで読めても王立図書館の資料が読み終わらないのか。

 無害な時間が過ぎた。日が一番高いところを過ぎたころ、彼女は店じまいを始めた。俺は時間つぶしの小説本の続きが気になって貸し出しカウンターへ持っていった。俺が戻ったとき、カナリーは机の上を力一杯の指さし確認していた。忘れ物がないか確認しているのだろう。大丈夫か、この子。

 家までのルートは既に確認済みだ。どのあたりで声をかけるかも検討済みである。途中でおもっくそ想定と別ルートに入ったけど。

 カナリーは流行な店のジェラードを買い、観光パンフレットに載っている階段に座って嬉しそうに食べていた。甘い物、好きなんだな。そんな笑顔だ。

 俺は近くのベンチで風景に溶け込みながら、なんでこんなことをしているのかわからなくなっていた。

「あっ、あっ、ど、どうしよう」

 カナリーのスカートの上にジェラードが垂れた。これは手もベトベトだろう。

 心が折れた。俺はカナリーにハンカチを差し出した。

「はい、どうぞ」

「えっ……えっ……」

 俺と溶けたジェラードで板挟みになり、カナリーは口を半開きにして視線を行ったり来たりさせた。その間にもジェラードは無情にポタポタ垂れ続けてスカートに染みを作っていた。

「ああ、ほら、綺麗な服なのに汚れちゃうだろ。拭きなよ」

「は、はわ……あ、ありがとうございます」

 ビクビク怯えながらハンカチを受け取ると、垂れたジェラードを拭き取る。が、それで待ってくれるジェラードではない。拭いている手の上に垂れてしまい、カナリーはもうお手上げ状態だ。

「はうぅ! どどど、どうすれば……」

 半泣きで俺に助けを求めてくる。顔が可愛い。いや、そういう問題じゃなくて。

「ここのジェラード、柔らかいから溶けやすいんだ。外側から食べるのがコツ。あとはスピード勝負だな」

「ええっ? 私、食べるの遅くて……が、がんばりますっ」

 横で見ていたが普通に遅かった。ジェラードの汁で彼女の手もハンカチもベショベショになっていたけれど、がんばって完食した。

「あぁ~……すごくおいしかったです。すごくおいしかったけれど、ベタベタになってしまいました……私ったらポンコツ……ヒン」

 カナリーは喜びと悲しみで顔を複雑にくしゃくしゃさせていた。クールで知的な見た目との落差に戸惑いはあるが、それはそれで嫌いじゃない。

「いやまあ……この店の洗礼だよ。あっちで手洗えるよ、ついてきて」

 と言ったら、本当に素直に付いてきた。逃げ出す素振りもなかった。胸元へ所在なさげに甘くなったハンカチを持っている。なんでこんなに素直なの?

「あの、あの……なんで私を助けてくれるんですか?」

 ただ助けられただけだと思っているから素直なのか。今回は不意に出会った前回と違う。しっかりと予定を立てて来た。が、一日見守って一切危険な気配がなく、そのうえ見守っていたらヒヤヒヤしてしまい、戦意は喪失してしまった。

「見てらんなくて」

「はうっ……! は、恥ずかしい……」

 近くの広場の水飲み場で手を洗う。鞄からレースのハンカチを取り出して、流しに取り落としていた。

「あっ、あっ、落としちゃった」

 パタパタと手で水滴を拭い、ひっくり返して手を拭く。恥ずかしそうに背中を丸めていた。かなりダメだこの子。それより、ハンカチあるなら先にそっちで拭いていればいいのに。カナリーは俺の視線に気がついて、恥ずかしそうに笑った。

「さっきも自分のハンカチで拭けばよかったですね……すっかり慌てちゃって。お借りしたハンカチは洗ってお返しします」

 吸い込まれそうな大きな瞳に上目遣いに見つめられる。これが普通のナンパならよかったのに。

「気にしなくて良いよ。ま、話しかけるきっかけにはなったかな」

 いや、こんなナンパみたいなノリでいいのか? 本来の任務を忘れてうっかり楽しくなっていないか。

「えっ? そ、そんな。ナンパみたいです」

 カナリーの白いほっぺたがぽわわっと赤くなって、途端に視線が合わなくなる。あら、俺達ってば感性似てるんじゃない?

 思い出して暗い気持ちになる前にいい反応を貰ってしまった。もうナンパでいいんじゃないかな? ダメ? ダメかー。仕事しないとな。

「ナンパみたい? いい夢見たいけど半端な口説き文句じゃ無理みたい」

 カナリーは体を縮めて小さく震える。俺の言葉がクソサムだったら白い目で見られるだけだが、恐怖で強ばった瞳だった。

「勇者……」

 なぜそこで勇者認定するのか? なんて野暮な質問はしない。俺はター君評すところ歌って踊る勇者だ。

「そうです俺が勇者ですお仕事モードで君の死神(デス)」

 あーあ、悪手。もっと親しくなれば目的を全部吐いて貰うのは楽だったのに。でも、そんな欺し討ちをするのは可哀想だし、何より自分が辛かった。身を隠しながら魔王を倒してきたけれど、特別なスパイ教育を受けているわけじゃないのだ。

「あわ、わ……ごめんなさい。私、上手にお喋りのペースがあわせられないので……その、ノリが悪くて不愉快にさせてしまったら、ごめんなさい」

 怖がっている。そして、俺のテンションに困惑してしどろもどろになっている。

 なんでそんなに謝るのかな。ただ俺はお調子者のバカなだけなんだけどな。こんなに謝られると自分がいじめているような気がしてしまう。

 職務上は情報を吐かせた上で殺さなくちゃいけないんだっけ?

 俺は噴水の見えるベンチにゆらりと座った。平日の夕方から夜にかけての今は、カップルと犬の散歩をしている人がちらほらいる程度だ。

「必要なのはリズム? いやいや執拗に理詰めの事実。まあ隣座りなよ、聞かせてくれよ君の話、逃げるのはなし」

 ベンチの隣をポンポン叩く。

 カナリーは俺とベンチを見比べて硬直していた。が、胸に手を当てて何度か苦しそうに息をしたあと隣に腰掛けた。

 スカートが皺にならないように上品に手で押さえる仕草も、ピンとした背筋も、自然に膝へ置かれた手も、合わせられた爪先も、どこからどこまで仕草が上品だ。頭のてっぺんから爪先まで圧倒的な高嶺の華のオーラ。仕事の緊張とは異なる緊張感は、初めてスワン姫と対面したときと同じ性質のものだ。つまり、少しすれば慣れるし、基本的には裏切られるだろう。すげえ甘い匂いがするのはさっきのジェラードだな。バニラの匂い。

「まず最初に、お話の機会をいただきありがとうございます。父と魔王城の魔物達は、人間と対話をせずに武力を以て抗うことを方針としていましたので……」

「父?」

「先代魔王です。私は先代魔王の娘のカナリーと申します。現状では王位継承権の順位が一番高くなりますね」

 彼女は顔色も変えずに凜と澄ましている。

 次の魔界の意向は自分の考えと等しくなる、という意図の言葉だろう。だが、俺には父という言葉が重すぎた。俺が殺しました。

 胃がずしりとして逆再生しそうになった。暑いのか寒いのかわからなくなって冷や汗が噴き出し、指先が痺れた。

「あっ……えっと……俺はアルベルト。一応、君の父親と仲間の敵……」

「存じております。その……役者さんみたいに歌って笑いながら殺しているところを一度伺いましたので。ちょうど城から出て行くときでした」

 思い出したのか、カナリーはブルリと大きく震えた。心臓を守るみたいに両手をぎゅっと握って胸に当てる。

 自分がどんな風に外から見えるかわからないし、何をしていたのかもよく思い出せない。でも、わかることはある。そんな暴漢が乗り込んできたらさぞ怖かろうよ。

 ふう、とゆるやかに息を吐いて、カナリーは姿勢を正した。風に流れる紫の髪の先で夕日が揺らめいている。

「なぜ私がここにいるのか説明をさせてください。私は研究者として、研究のために地上に滞在しています。研究のテーマは『なぜ魔物は地下に住んでいるのか』。人間界に私たちが住む地下と合致する記述がないか探しに来ました。そして、手がかりを求めて図書館の文献を調べています」

 読んでいた本の意図がようやくわかった。彼女の理知的な顔立ちと整理された言葉使いの説得力に押されてしまい、俺は口をポカンと開いた。

「すごいね。それ、俺も知りたい」

「まあ。ご興味を持っていただけて嬉しいです! 私、本当のことがわかれば、色々なことが変わると思うんです」

「本当のことか……すっげー知りたいな。とはいえ、都合が良いか。俺、君の家族も仲間も散々殺してるし」

 君のことを殺さなくちゃいけない、とは言えなかった。言いたくなかった。もう殺したくないし、この子を殺したいとも思えない。

 夕日が沈んでいく角度くらい、彼女は俯いた。膝の上に置いた手を祈るみたいにぎゅっと握って、再び綺麗な姿勢で俺を見つめた。

「私は父のやり方に反対していました。でも、父は私を応援してくれました。本当は魔族だとわかった段階で私は殺されなくてはいけないのでしょうね。でも、アルベルトさんが優しいから、こうやって話を聞いていただけるのだと思います。研究を全うするのが私の使命です。もう少しで答えがわかりそうなんです。私を殺すのは、それまで待っていただけませんか。どうかお願いします」

 立ち上がった彼女は、膝に手を当てて深々と俺に頭を下げた。こんなに綺麗なお辞儀を見たことがない。ただ頭を下げるだけなのに重力を操作したのかというくらいにプレッシャーが重くのしかかるお辞儀だった。

 悲しいだろう。憎いだろう。怖いだろう。でも、全部を押し殺して隠すのは、自分の使命を果たす為なのだ。

 俺とは違う。祭り上げられて調子に乗って、嫌になって、でも仕事だから自分を殺して、考えるのも止めて、無理して終わらせた。言われるがままの自分が情けない。耐えがたいのは、もうけっこう前からなのだ。

「本当は殺したくなんかないよ」

 これは本音。俺は普通の人間だ。

「でも仕事だからね?」

 これは事実。だけど俺は勇者だ。

 心が二つある。普通の人間の俺が化け物みたいな勇者の俺を見下ろしている。

 カナリーの肩は猫背になりかけたが、唇をぎゅっと結んで耐えていた。体中が怯えを外に出さないように力んでいて、かえって震えていた。

「最初は本当に怖かったです……今でも少し。歌って踊って仲間が殺されるなんて、悪夢を見ているみたいでした。でも、実際にお会いして、お話をして、あなたはお優しい方だと思いました。罪悪感を抱えていらっしゃるなら、それはあなたの優しさなのですね」

 少しぎこちない笑い方だ。夕日の赤色に照らされた彼女の半分影になった微笑みは泣いてしまいそうなくらいに悲しくて、なにもない夜に空を見上げたときの月みたいだった。

 彼女なりの命乞いなんだろう。褒め殺しなのだろうか。でも、嘘には聞こえない。俺の心が弱いから彼女の言葉を信じたいだけかもしれない。

「あなたはただ、真面目に自分の仕事をしただけですよ」

「何も考えず、自分を持たずにね」

 暗い顔を見せるのは嫌なのに、腹に力を入れて空っぽな自分を笑い飛ばす気力がかくれんぼの最中で見つからない。

 俺の声のトーンがおかしいとでも思ったのか、彼女はふいにこちらを見つめる。さっきまで縮こまっていたのに、今は心配そうに小首を傾げた。

「どうしてもやらなくてはならなかったのでしょう? 自分で決められなければ、変えることのできない運命もあります」

「君は自分で決めてるように見える」

「変えられない運命もあります。私は魔族の魔王の娘として地底で生まれました。そのことに抗うつもりはありません」

 それが一体どうした。

 魔族だから、地底に住んでいる。地底がどんなところなのか俺は知らない。

 魔王の娘は、スワン姫と同じ一国のお姫様ということだ。お姫様の気持ちなんか一般人だし男だし俺にはわからない。

 彼女の背負ったものなんて今の俺には何一つ理解できない。形も質も違いすぎて自分と同じ重みだとも思えない。

 だけど、少しでも知りたいと思ってしまった。そうしたところで自分の荷物が軽くなるわけじゃないのにね。俺の勇者って肩書き。

「私があなたを許さなければ世界は次に進みません」

 声が震えていた。

 逆にホッとした。彼女も心中では俺に怒りや憎しみを抱いているのだ。今までの言葉が嘘ならば、あえてこんなことを言ったりはしないだろう。

「そっか。君は考えて自分を持った上で、真面目に自分の仕事をしようとしてるんだな。わかった。俺もできることがあるなら研究の協力をするよ」

「ほ、本当に? いいのですか?」

「俺も知りたい。本当は目的がわかったから殺さなくちゃいけないんだけど、暴れるつもりはないんだろ? 今のところ処置は一任されてるからいいでしょ。多分。知らんけど」

「多分……? 知らんけど……?」

 曖昧なニュアンスを受け止めきれないのか、心細そうにカナリーは繰り返した。確かに、お姫様に対してこんな適当なことを言うやつはあまりいないだろう。

 上に報告をしたらどう判断されるかはわからないが、少なくともしばらく殺さなくて良いんだ。事態を先延ばしできて、瞬間的に気が楽になった。

 俺はベンチから弾むように立ち上がる。

「もう暗いから送ってくよ」

 カナリーは膝に手を揃えて「ありがとうございます」と会釈をした。なんだかデート帰りのような錯覚を抱いてしまい、途端にむず痒くなってきた。

 ター君に教えて貰った甘いものがおいしい店の話などをしながら道を戻り、最初に俺が予定していた通りのルートを進む。マジでただの寄り道だったんだなあ。

「ちょっと失礼」

 俺は脇道の植え込みの陰に隠していた退魔の剣を回収した。持ち上げるときに少しだけ柄がずりおちて、独得の質感の白銀の胴体が陽に晒される。

「えっ? なんでそんなところに剣を?」

 カナリーが目をパチパチさせると長い睫が重たそうだ。

「うーん。はっきりとは答えにくいな。俺が君の帰り道を知っていて後をつけていた、って条件から想像して欲しいかな」

 剣は目立つから持つ場所を選ぶのだ。自分でも悲しいとは思うが、俺はどこにでも溶け込める凡庸な見た目をしている。うるさめの口を閉じて剣を隠せば、通行人どころか道ばたの木か雑草程度の存在感だろう。

 こみ上げてくる震えを押さえつけるようにカナリーは肩を押さえた。

「お、置いておくとして、誰かに持って行かれたりはしないのですか?」

「普通の剣なら危ないけれど、退魔の剣に限ってそれはないな。この剣、勇者しか持てないんだよ。酔い潰れて道ばたで寝ちゃっても置き引きされないから安心なんだよね」

 道中、そんなこともありましたね。

 剣を持っていこうとする暴漢がいたのでボコボコにしたけれど、次に気がついたときにはエグい量の血がついていた、もしかすると意識のないときに相当酷いことをしたかもしれない。殺してはいないはずだ。

「大変不躾な申し出なのですが、持ってみたいので貸していただけませんか?」

 カナリーは怪訝に細い眉を寄せ、顎に手を当て、瞳を研ぎ澄まし、まじまじと剣を眺めた。真面目な顔をするだけで知的な美に圧倒される。どうやって切り替えてんだ。

「うんいいよ。怪我しないように気をつけてね。ここ持って。はいどうぞ」

 柄を指さしながら刀身を支える。勇者以外は持ち上がらないから、支えていないと地面へズドンと落ちてしまうだろう。

「わ、重い」

 カナリーは華奢な両手にぐっと力を込めて、不安定ながらも剣をなんとか持ち上げた。

 えっ? 俺が反対側を支えているから? 信じられず、咄嗟に支えていた手を離した。

「はうっ」

 見てて心配になるくらいに大きくぐらついたけれど、カナリーは転ばずにきちんと立っている。もちろん剣も落としていない。

「ドレスの女の子が剣を持つ姿ってなんか可愛いなぁ! ……って、嘘でしょぉ……」

 現実逃避を織り交ぜたけれど、これ、やっぱり現実だよね。

 退魔の剣は勇者以外には持てないはずなのだ。なんでカナリーが持てるの?

 もしかして俺、国に謀られた生贄? 死んでも誰も困らない身寄りのない俺を魔王城に送り出したの?

 仮に勇者以外でも持てるなら、酔い潰れた夜、あの男は剣を持っていこうとしていたんじゃなくて、ただ俺に手を出そうとした暴漢だったの? 性的な意味で?

 色んな疑問がブワァーとわいてきて、俺、どうしよう、混乱してる。

「この剣はオリハルコンでできています。魔族ならば誰でも持つことができます。逆に言うと、人間には持つことも、加工をすることもできません。また、魔族の肉体に影響を与えるため、地底では使用の際に許可をとらねばなりません。確認をさせてください。この剣は『勇者しか持てない剣』なんですね?」

 カナリーは確信を持った目で俺をまっすぐ見つめている。その瞳は揺らぎなくて、信じてついていけば絶対に答えが出るという安心感があった。でもね、今は落ち着いていられる状況じゃない。

「ええっ? うん、そうなんだけど、どゆこと? どゆことだ? それは初代の勇者から代々受け継がれてきた聖なる剣ぞ? 退魔の剣ぞ? 俺よくわかんないぞ?」

 差し出された剣を受け取る。いつものしっくり感がなくて、奇妙なものに触れている気分になった。

「すみません。考えをまとめさせてください。少し疲れてしまって……使用人に心配されてしまうので、送っていただくのはここまでで大丈夫です」

 神妙な顔で視線を足下へ落とすカナリー。

 気分としてはこのまま帰ってもぐっすり眠れそうにないけれど、だからと言ってどうしようもない。彼女の家に押しかけるのは違うだろう。

「ええと……わかったよ。気をつけて。最後にごめん、姉二人って聞いてるけど?」

 カナリーは驚いて目を見開いたあと、鳥肌でも立ったのか二の腕に手を添えて撫でる。目を合わせようともしなかった。

「使用人が姉のふりをしているんです。人間界では人間界の通貨が必要なので、働いてくれています」

「ああ、なるほど。それに使用人二人連れた女の子って相当目立つもんな」

 目立ちたくないならその目立つ服をやめればいいのに。似合っているけど。

「早く成果を出さなくちゃ、なんですね。観光していて言うことではないんですけれど、町並みも人混みも楽しくて……」

 もどかしそうに苦笑を浮かべ、カナリーは糸でつられたように天を見上げる。

「夜の空は地底と同じ色をしています。でも、月も星も雲も綺麗。地上は素敵ですね」

 そう言う彼女の顔の方が億倍綺麗だ。なんて恥ずかしいことは言えないし、なんならキモさにヒかれて爆発四散する未来しか見えない。見惚れるだけで精一杯だった。

 手を振り返して、見送って、しばらく立ち尽くしてしまった。

 俺は一体、なんなんだろう。足下が安定しないような不安が冷やっこい液体のように体の中をぐるぐると巡っている。

「やあアル君、さっきの美人は恋人かい?」

 肩をポンと叩かれて飛び跳ねてしまった。咄嗟に剣を抜かずに済んで良かった。

「カイト! 休みか?」

 名前を呼んでも差し支えないのは、案外同名の人が多いから。

 先日、一度も目を合わせてくれなかった第一騎士団長のカイトだ。ラフな格好をするとチャラい。ヘラヘラするだけで凜々しい騎士隊長のオーラが消えてそこら辺の兄ちゃんになる。フレームが目立つ伊達眼鏡をかければなお別人だ。今日は満面の笑みの上に、きちんと視線が合った。

「いや。仕事終わり。この頃は飲みに行くだけでも気を使うんだよね。誰だって二十四時間キリッとなんかしていられるわけないだろう。かといって期待に応えなくてはいけないから、つまるところ、職務から解放される手段を考えないとならないわけだ」

 説明をはじめると途端に顔が暗くなる。半年前はここまで窮屈そうでもなかったのに。

「ああ、飲ミニケーションとか言うやつか。結婚したら家も職場なんだろ? 大変だな」

「わ、わかってくれるか……! い、行こう飲み行こう、付き合ってくれ、外の誰かに聞いて欲しいんだ頼むッ、ター君は酒が飲めないから一緒に来てくれないんだ!」

 切羽詰まった早口。マリッジブルーなのだろうか。

 拒否するつもりもなかったけれど、肩を掴まれて無理矢理に連行された。王都は色んな店が沢山あっていいね。ここはソーセージがおいしい店だってさ。デートで来る店じゃないかな。周囲、カップルばっかりだよ。

 対面に座る。賑やかな店内は何を話しても興味を持たれなさそうで落ち着く。

「アル君とはどこかできちんと話す機会が欲しかったんだ。でも、君に恋人がいるなら少し気が楽になった」

「あ~、ごめん。恋人ではない……」

「えっ……? いや、いける、いけるぞ! がんばれ! 君は偉業を成し遂げたんだ、高いところ狙っていけ!」

 そんな一生懸命に言われても逆に腹立つ。見た目が不釣り合いで悪ぅございましたね。思わず舌打ちが出そうになった。

「いや、とりあえず、そこはおいといて。それより姫……君のお姫様と何があったの? あ、俺、怒ったりとかはないからね。半年で何があったのか気になっちゃって」

 どんなに周囲がこちらを気にしていないとは言っても、ある程度はぼんやりモザイクをかけておこう。これで姫様という単語を漏らしても、よくいるカイトの恋人だと言い訳ができる。と、思いたい。

 カイトは口を濡らすようにグラスを傾ける。変な緊張感が伝わってきた。

「移動中に落石があってね。私が彼女を助け出したんだ。それだけなんだよ」

「なんか想像できるな。でもさ、釣り合いとれていいんじゃないかな。二人とも美形だし、馴染み深いわけだし。みんな大喜びでしょ」

「いや、人々が求めるのは勇者だろう……」

 カイトの表情が曇る。そんなに俺のことを気にしていたのか。確かに俺も帰ってきた直後はショック受けた顔をしちゃったけど。

「いやいや、俺が出てきたらみんながっかりするから。明らかにカイトの方がいいって。俺なんか教養ないから人前に出るときにきちんとした立ち振る舞いなんかできないし。何より見栄えに圧倒的な差がある、ここ重要。って、言ってて悲しくなってくるわ」

「私はアルの顔好きだよ。でも、あまり自分の顔は好きじゃないかな。見た目に振り回されているというか、外面がどんどん自分の中身からかけ離れていくんだ」

 頬杖をついてアンニュイにため息をつくだけで、カイトは絵になった。

 すげー腹立つ! でも、俺も勇者の看板と自分自身が分断されている気がするから共感はできる。とはいえ腹が立つ! 本気で悩んでいることも知っているから『自慢かよ』なんて相手を傷つけるような舌打ちはしないけど。腹は立つんだよ! いけ好かないな!

「私もね、彼女と結婚するのが一番いい結論だと思ったんだ。お互いによく知っているし、彼女のことを妹みたいに思っている。でも、君に相談する前に決めてしまったのは彼女なんだよ。私には勢いを止められなかった。許しておくれ」

「あの子はそういう性格だからね。許すもなにも喜んでるから。俺は君らが決める前でも後でも相談されて思うことは一緒、おめでとう。色々大変そうだけどカイトならなんとかなるって」

 最初からそこは俺の居場所じゃないとわかっていた。ただちょっと、知らない間に物事が動いていたから疎外感があったくらいだ。あと大勢の前でフられるのはキツい程度で。

 酔いが回ってきたのか、カイトはぐすっと涙ぐんでいた。

「君は本当にいいやつだ。おちゃらけて見せているからそう感じさせないけれど、我慢していないか心配になるよ」

「お前もな。爽やか完璧超人を周囲に期待されるのは辛かろうよ」

 帰ってきたばかりのときは知らない間にできた距離が気になって仕方なかったけれど、こんなに簡単にいつも通りに戻れてしまった。友情を確認できれば、それで十分だ。どうしてあんなにも疎外感を感じていたのか不思議だった。きっと俺は旅の疲れで神経がピリピリしていたのだろう。

「なあ。故郷に帰るって言ってたけど、どうして王都にいるんだい?」

 とはいえ、この話は今の幸せな彼には話したくなかった。何一つ誰かのせいではないのに、絶対に気にするからだ。おいしいような気のするアツアツのソーセージを咀嚼しながら曖昧にしよう。

「そうさねえ。自分探しをしているんだ。面白そうな資格がないか図書館に入り浸ったりしてさ。仕事も修行もない時間を過ごすのは初めてだよ。いわゆる無職だな」

「ああ、いいなあ……モラトリウムってやつか。私もそういう時間を過ごしてみたかったな……」

 お世辞抜きの羨望の眼差し。誰もが羨む出世の道を歩む彼にも、それ故に歩めない道があったのだろう。

「俺も故郷から一歩も出なかったらこんな時間は過ごさなかったな」

「聞ける立場じゃないけれど、君はどっちの方が良かったかい?」

 妙に重い口調の問いに彼自身の迷いが見えた。そりゃお姫様との結婚なのだから色々思うところあるだろうな。

 自分にしかできないことを任されるほど辛いことはない。カイトもそう思うだろ? でも、そんなこと言えない。弱みを見せられないわけじゃなくて、目の前にきちんとできている人がいるのに、自分がぐずぐずと弱音を吐いて相手の暗い共感を引っ張り出すことが馬鹿馬鹿しいのだ。笑ってる方が楽しいに決まってる。

「わかんねー。だって故郷を出なかったらカイトやター君とも友達になれなかったわけだろ?」

「そうか。そうだな。私もいいことの方を探そう」

「そうそう! 何やったって、良いことも悪いこともだいたい半々よ。知らんけど」

「そこは知っててくれよ」

 口を開いてあははとカイトは笑った。いつも笑っているイメージなのに、こんな風に笑う姿は滅多に見ない。

「はあ。なんでこんなことでこんなに笑ってしまうんだろう」

「そうだよ、そんな笑うところじゃないぞ」

「ごめんごめん。たぶん、アルといると緊張しなくていいからだね」

 まだ口元をへらへらさせているカイト。気を許せる相手がどれだけいるだろうか。彼の交友関係に詳しいわけじゃないけれど、第一騎士団長のポジションを想像するだけで息苦しかった。

「ところで、アルに折り入ってのお願いがあるんだ。王都にいるなら名乗り出てもらえないかな」

 カイトは俺に顔をぐっと近づけて、声のトーンを落とした。

「勇者だってことを」

 目と眉が近い真剣な顔は職務中の彼そのものだ。またその話か。食傷気味だ。

「うーん、ごめん。ちょっと嫌かなぁ。今は静かに暮らしたいんだよね」

「その気持ちもわかる。だが、皆が私を勇者に仕立てようとするんだ。私は第一騎士団長でずっと王国にいるんだぞ。分身しなきゃ無理じゃないか。それなのに、私が時間外労働で魔王を倒したと思い込みたがっている。誰が言ったか双子替え玉説まで流れ出した。どう考えてもおかしいだろう、色々と」

「いかにも伝説って感じでウケる」

「ウケてる場合じゃない。すべて君の功績なんだ。もし私が一度これをうっかり受け入れたら二度と訂正できなくなる。こんな民意で君の功績を奪うことなんかしたくない」

「カイトは真面目だにゃぁ」

 茶化すように言ったけれど、それだけで苦労が報われる。近くの大切な人がわかってくれることが一番嬉しい。

 でも、功績って言ってもな。殺してるんだよな、魔物。俺の気持ちが弱っているせいなのかもしれないが、例え敵対していても殺しを讃えられるのはおかしい気がする。英雄なのか殺人鬼なのかわからない。勇者がいないと大変なことになるかもしれない。でも、ことが終わってしまえば勇者なんかいない方がいい。そう思ってしまう。

 俺の意志が変わらないことを見て取ったか、カイトは残念そうに眉を下げた。ため息交じりに背筋を伸ばす。

「ともかく私は否定し続けるよ。いつか君が名乗り出たとき、大切な友人として皆に紹介させて欲しい」

「んー。期待しないでね」

 まだ色々なことの整理がつかない。答えが見つかるまでは名乗り上げることはできないだろう。

 待てよ? 違うぞ? 俺は何をしたいのかわからなくて迷っていた。今は目標がある。わずかでも前進している!

「いや。時間はかかるかもしれないけど、待ってて。きっと言う時がくる」

 俺が自分を勇者だと公表することは、カナリーの研究を発表するときの後ろ盾になるだろうか。カナリーに尽くして自分の罪の償いをしようとしているのか。それとも、答えが出たら今後は戦わなくて済むようになるのか。まだ何もわからない。わからないけれど、きっと救われると思っている。希望的観測って、言葉の中に希望が入ってる。それだけで明るいよ。


***


 レイヴンはフロント横の小さい談話室でハープを弾いていた。夜にぴったりなもの寂しい曲を弾き終わると、聞き入っていた三人の旅行者がチップを机の上に置く。そのうちの一人がいたく感動したらしく、自分の人生に重ねて熱く語っていた。

 一人で部屋に戻るのは寂しかったから眺めて待っていた。レイヴンのハープは宝石風の装飾が掘られていて、一つだけ艶やかな白銀石がはめ込まれている。全体はクラシックなセピア風の色調なのに、そこだけ色味が強く浮き上がるので妙に目立つ。

「お疲れ様。奥で聞いていたけれど、とってもいい演奏だったわ」

 ハープを仕舞っていると、今度は宿の女将さんが奥から出てきた。アットホームな宿屋の印象に反して派手やかで、話し方はやや大袈裟だ。声も大きい。

「ありがとうございます。居心地がよかったので気持ちよく弾けました」

 なんて仕事の話をはじめた。もう帰る気配を出して立ち上がっていた俺は、ふんふんと相槌を打ちながら一応話は聞いている。

 しばらくレイヴンは手放しで褒められていて、ようやく会話は一区切りというところ。

「ところで、二人は恋人?」

 ちょっと聞きにくそうな溜めがあったけれど、興味津々なテンションを押さえるための溜めかもしれない。急に俺も巻き込まれた。

「いえ……」

 話す準備ができていなかった俺は、はぁ、みたいな滑り始めの調子で言った。

「友達です」

 俺が二の句を継ぐ前に、レイヴンがかなり強めの口調で言った。

「あら、そうなの? 最近はそういうの多いし、私は偏見ないわよ」

「友達です。じゃ、失礼しますね」

 レイヴンが俺の背中を叩いて「行こっか」と言った。その口調は尖っていて明らかに不機嫌だ。

 俺はレイヴンの性別がわからないけど、もしレイヴンが女の子だった場合、そういう言い方されるとなんとも言えない気持ちになる。ないない~、みたいに、せめて笑って否定してくれ。それもわりと傷つくか。うぅん、これってどうやって否定すれば俺の心は傷つかないの? 二人とも、ないない~って思ってれば笑い話になるのか。自然とそうならなかったってことは、案外俺はレイヴンを意識しているのだ。

「あれって、ツインの部屋にするか、もう一つ部屋をとれって圧なんじゃないか?」

 女将に聞こえないよう、俺は小さい声で言う。レイヴンはくしゃくしゃになるくらい不機嫌に顔をしかめる。

「あー、そうかも。でも、それならそう言った方がいいよ。仕事なんだからキツい皮肉を言う必要ないだろ」

「それもそうだな……単純な興味か」

「下世話な人。大っ嫌い」

 嫌悪感露わに吐き捨てる。こんな言い方をするのは初めて見たのでびっくりした。

「そこまで言うなんて珍しいな」

「だってさ。嫌じゃん。その一言で人間関係が崩れる可能性もあるんだよ? あの人、そこまで責任持って言ってないでしょ」

 確かに……異性の友人でも同性の友人でも、その気がないなら周囲に勘違いされるのも嫌だから距離をとってしまうだろう。逆にその気があって相手に否定されたら、死。どちらにしても拗れてしまう、大いなる責任を伴う質問だ。現に今、内心では大混乱だし。いい雰囲気だったら倍プッシュにはなるか。

「ま、そこまで俺のこと大事に思ってくれてるっていうのが嬉しいかな」

 できればこのまま性別を知らないで友人関係を続けたい。だって本当に居心地がいい。

「仕方ないな、アルに免じて許してやるか」

 へらっと笑うレイヴンはとっとと部屋に入るとベッド代わりのソファに飛び込んだ。

「でさ、アルは今日どうだったの? 言えない仕事なら、まあ、代わりに一曲歌ってよ」

 外套を脱いで雑に背もたれにかけ、投げられたパイのようにぐちゃっと脱力してソファに寝転がるレイヴン。それでも帽子はとらない。

 俺は剣を壁際に立てかけて飾り物にしてから、適当に身軽になってベッドに腰掛ける。もう既に眠かった。

「本職相手に歌わずに済んで良かったよ。今日は殺すつもりで行ったけど、ひとまず仕事せずに済んだ。ラッキー」

「うわあ。下手な歌を聴いた方がよっぽど気楽な内容じゃないか……しんど……」

「な? 一日気が重かったよ。でもな、すごいんだぜ? 魔物のお姫様が人間に擬態して捜し物してんだ。それがもうとんでもない美少女で……」

 簡単にかいつまんで今日のことを話した。

 ター君にもお目通ししたし、前以上にレイヴンには何を話しても大丈夫だろう。と、俺は信じている。王都でのんびり過ごして少し調子が戻ってきたが、レイヴンはかなり心の支えになっている。今後、もし仕事上の不都合があれば殺さないといけないけれど、そのときは俺の心も取り返しがつかないだろうから大丈夫だ。なにも大丈夫じゃない。なので、なにもないことを心から願っている。

 最初は月のような目をキラキラさせて鼻息荒くふんふんと聞いてくれていたが、終盤は顔色が変わり、思い悩むように真顔になっていた。俺は話すことに精一杯だったせいで、一体いつからそんな顔をしていたのかわからなかった。

「ミーは知ってるよ」

「何を? ……もしかして、魔物が地底にいる理由か?」

 知ってそうな気がしてしまう。性別も素性もよくわからないやつだからこそ、何を知っていてもおかしくないと思えてしまった。

「ンーフフン」

 レイヴンは鼻歌みたいに笑った。あ、違うみたい。

「ミーはキャラ作りが上手いらしい、相当はったり効いてるな。今晩は作曲するから明日また聞いてよ。そしたら良い感じに歌いながら説明するからさっ!」

 帽子の縁をちょいと下げてアイマスクにする。しばらく指先や爪先でリズムを刻んでいたけれど、気がついたら寝息になっていた。それで作曲などできるのか、俺のような凡人にはどだい想像も理解できない。

 俺はベッドに転がって代わり映えのしない天井を眺めた。途端に心臓が煩くなった。

 すぐ隣に良い友人がいるので寂しくない。町に出れば良い友人がいるから寂しくない。居場所はあった。でも、俺が魔物の命を奪ったことにはかわりないんだよなぁ。カナリーの父親や仲間を殺したのは俺だ。

 俺は良い友達に恵まれているけれど、幸せを感じていいのだろうか。だって他人の幸せを奪っている。

 いや、待て待て? その考え方はまずい。胸に手を置く。肯定にも反論にも理はあると思うからこそ、どちらかに偏るってことは心が相当ヤバイみたいだ。客観的になれるからまだ正常。俺は正常。

 目は冴えているけれど体は重い。暗闇が死んだみたいで怖かった。俺は枕元のランプをつける。眠るのが怖い。眠ったらどうせ悪い夢を見る。

「森でお花を育てよう……私は白い服を着よう……皆でお日様を照らし続けよう……まだ見ぬ夜が来ぬよう……皆でお日様を照らし続けよう……」

 どんなに故郷の詩を歌ったところで時間は逆戻りしない。俺は戻れない。まだ見ぬ夜が俺には訪れている。でも、お日様を照らすって表現は奇妙だな。お天道様はこちらを照らすものだ。

 揚げ足をとっていたら、いつの間にか眠りについていた。

 夢の中の俺は魔王城にいた。魔物は斬った瞬間だけ赤い血が出るけれど、本体が消滅すると体は塵に、血は霧になって消えてしまう。真っ赤な霧が立ちこめていた。赤い霧の先に丸い月が浮いていた。俺は何かに追われていて、逃げなければいけないのに、足が重い。動けない。必死に足を持ち上げて前に進む。地面が真っ黒な空間になった。俺は落ちる。どこまでも落ちていく。

 悲鳴をあげて飛び起きた。心臓がバクバク言っていた。体は眠いのに、また眠ったら夢の続きを見てしまう気がして、怖い。

「らいひょぉう……?」

 起こされたのだろう。寝ぼけたレイヴンは舌が回らず、言葉になっていなかった。でも意味はわかる。大丈夫? だ。

「ありがとう。平気」

 俺の返事を聞いたら、レイヴンはまたスッと眠りに入っていった。

 ねじ切れそうな心臓がリセットされた。側に誰かがいる安心感で眠れそうだ。いい夢なんか望まないから、せめて朝までゆっくり休みたい。


***


 特に約束をしていないけれど、俺とカナリーは図書館で合流した。午前中は調べ物に付き合い、今は昼休憩。

 俺達は先日の公園のベンチに並び、大通りで買った人気店のサンドイッチを食べていた。カナリーのリクエストだ。

「お花みたいで可愛いですね。ふふ、どこから食べたら良いんでしょう。崩しちゃうのはなんだかもったいない気もしますね」

 サンドイッチの断面を眺めて、カナリーは嬉しそうにニコニコしていた。フルーツが飾られた生クリームのサンドイッチはター君の好物でもある。

 俺には見えるぞ。お尻からクリーム出るよな。そしてフルーツの実が出る。カナリーは膝の上にハンカチをひいているので、ひたすらに見守りに徹しよう。なぜならば、このサンドイッチには正攻法が存在しないからだ。

 かぶりつく瞬間はご機嫌なのだ。でも、そこが地獄の始まり。

「んあああああ……」

 お尻ではなく、角を押さえる指を支点として左右へクリームがでろんと溢れる。綺麗に飾られていたフルーツも加圧により位置が変わり、モグラ叩きのように顔を出す。

「はわわ……む、難しいです……一体どうすれば……」

 サンドイッチをくるくる回しながら、溢れたところを収めるようにちょっとずつ囓っていく。キャベツを食べる小動物みたいだ。

 俺は中身を吸いながら食べているのでわりと無害だ。この技術は三度目のトライくらいで習得した。しかし、生クリームを吸うという行為、わけがわからない。

「俺の友人は皿に載せてナイフとフォークで食べるんだ。あれが正解かもな」

「私も次からそうしたいですね……でも、これはこれで、ちょっと楽しいです」

 と言って油断したのか、フルーツがハンカチの上にポトンと落ちた。

「はう! うぅ……もったいない……」

「地面に落ちたわけじゃないし大丈夫でしょ。食べちゃえ食べちゃえ」

「えっ? そんなことしたら怒られちゃいます……!」

「怒る人いないから」

 彼女の父は俺が殺してしまったし、今は誰も怒らないのだ。自分の言ったことを省みたら暗い気持ちになってしまった。

 最初は少し悩んでいたカナリーだが、ハンカチで包んだまま、隠すように口元へと持っていく。おっ、食べたぞ。

「えへへ……楽しいですね」

 肩をすぼめて、いたずらっぽくカナリーは笑った。

 俺が思うほど彼女は言葉の綾を気にしていないらしい。悪いことを教えてしまった。なんか、そう思うと俺まで楽しくなってしまった。でも、俺はそんな気持ちになっていいのだろうか。

「どうかされましたか? やっぱり、私は死ななくてはいけないのでしょうか?」

 カナリーが不安そうに顔をのぞき込んでくる。どうやら俺は暗い顔をしてしいたようだ。表情一つで他人を不安にさせるなんて、至らなくて恥ずかしい限りだ。

「あ、そういうことじゃないよ。ごめん。考え事してた。上からは特に指示とか入ってないから今のところは安心して」

 そう言って手を横に振る。何が安心して、だ。俺はター君から殺せと言われたら本当にカナリーを殺せるのだろうか? 殺すのは得意だ。でも、彼女に剣を向けて振り下ろすなんて、俺にできるのか?

「ああ……なんかダメだな。へへへ」

 自分の頬をペチペチ叩く。頭の動きが鈍くて眠ってんのかって感じだ。せめて表情だけでも軽くしないと。

 答えが書いてあるはずもないのに、カナリーは照れてしまうくらいじっと俺を見つめる。

「顔色が優れません。ご無理をされているのでは……?」

「ただの寝不足だよ。ありがとう。心配されちゃうなんて俺ってばダサいなぁ」

 なんとも面はゆい気分だ。親の敵なんだからざまあみろくらいに思われても変じゃないのにな。

 さて、ここからは午後の予定だ。ベタ甘な口の中をコーヒーで洗い流し、包み紙を握りつぶして気持ちを切り替える。

「このあとなんだけどさ、俺の友人に会ってくれないか?」

「ご友人? 今仰っていた、ナイフとフォークの方ですか?」

「ううん。違うヤツ。吟遊詩人なんだけどさ、カナリーの研究に心当たりがあるかも知れないって言ってんだよ」

 これはレイヴンからの提案だ。呼んでこなけりゃ意地でも話さないと言われた。

「本当ですか! ご紹介いただきありがとうございます! どちらにお伺いすればよろしいでしょうか?」

 食いつきが良い。カナリーは真剣な目をしてずいっと顔を寄せてきた。キスされそうな距離に思わずどきっとしてしまう。軽く視線と背筋を逸らせた。

「今日は一日宿にいるって。えーっと、俺の泊まってる宿で、同室なんだよね」

「あら……? それって、アルベルトさんのお部屋ということですね?」

 さっと顔色が変わった。赤くなって青くなる。感情がよく出てしまう頬を隠すように、カナリーは両手で頬を押さえた。

「まあっ! ご、ごめんなさい。私、まだそういうのは早いというか……あの……覚悟ができません……」

 あ、なんか、気まずい勘違いをされている。俺まで恥ずかしくなってきた。それなんの覚悟? っていうか、俺は命を助ける代わりに何らかの要求をする男だと思われているのだろうか。

「違う違う違う! そういう意味じゃないから! カジュアルに遊びに来てください!」

「でも、お友達って男性ですよね……?」

 怯えなのか好奇心なのかはわからないけれど、おそるおそるという様子で上目遣いに尋ねられる。男性二人の部屋に行くなんてお姫様には未知の世界だろう。

 困ったぞ。答えようがない。

「……わからない……」

 俺は素直に答えることにした。

 カナリーは言葉が飲み込めずに目をパチパチさせた。睫、長いなあ。

「えっ? ごめんなさい。なにがわからないのか、よくわからないのですが……?」

「性別がわからないまま一緒にいるんだよ」

「それは……変わってますね?」

 とはいえ、それでもやっぱりイメージはわかないらしく、カナリーは首を捻っている。

「別に知らなくても良いかなって……ただ、有害じゃないから安心して欲しいんだ。なんなら俺は話が終わるまで部屋の外で待ってるから」

 焦っているのか、俺の身振り手振りはいつもより大袈裟だった。美人だからドギマギする地点は時間経過で越えたはずだ。

「その……一緒に居ていただいて大丈夫です。早とちりしてしまってごめんなさい。善意のお申し出なのに、私ったら、本当に恥ずかしいです……」

「そりゃ急に言われたらびっくりするよな。こっちもごめん。よければオリハルコンの件もそのときに話してもらえると助かるよ」

「ええ。アルベルトさんにとっては少し疲れる話になるかもしれませんが……」

「俺のことはアルでいいよ。短い方がいいじゃん?」

「ええと……あ、アルさん?」

 恥ずかしそうに肩をすぼめて、小さい声を出す。恋人が初めて名前を呼ぶような恥じらいに心臓がくすぐられて、むずむずしながら俺は「はい」と強ばった返事をした。

「あだ名なんて初めて」

 ふふっ、と嬉しそうに笑うカナリー。

 仲間も親も死んでいるのに、殺されたのに、彼女はどうしてこんな風に笑えるのだろう。彼女が怖いとか、申し訳ないとか、そういう気持ちじゃなかった。羨ましかった。


***


 妙にびくびくしながらついてきたカナリーを見て、宿屋の女将さんは目を丸くした。俺は「友達です」とだけ伝えて、長話を避けるように小走りで立ち去った。裏で変な噂をされていそうだけど、袖振り合う程度の縁だから、まあ、いっか。

「ここだよ」

 自分の声がぎこちなく上ずっている。泊まっている部屋に招くだけなのに、どうしてこんなに緊張するのか。

「はひ……」

 カナリーが右手と右足を一緒に出してしまうくらい緊張しているせいだろうか。

 ポロン。何かが落ちた音ではなく、また不意に下半身を露出したわけでもない。ハープが鳴った。

「ハープを奏でる流浪の旅人ミーの名前はレイヴン、御見知りおきを~」

 聞き慣れた前口上。レイヴンが自分の職に忠実なため良い感じに脱力した。いつもと違うのは、俺のベッドにレイヴンが座っているということだ。

「どうぞ座って」

 おかげでごく自然に普段レイヴンがベッドにしているソファを案内することができた。

「カナリーと申します。お会いできて光栄です」

 肩を強ばらせているカナリーはたおやかに頭を下げて腰掛ける。部屋に花を飾るような非日常の景色。

 クーがいたから女の子には慣れているつもりだったけれど、カナリーは別格な感じがして対応の仕方がわからなくなる。外では何度も隣に座ったのに、狭い空間では恐縮してしまって座ること自体が憚られた。俺は腕を組み、壁に寄りかかった。

 レイヴンが効果音をつけて茶化すみたいにポロンする。

「大したおもてなしもできませんが~」

「いやそこは歌わなくていいから」

 馬鹿馬鹿しい緊張と弛緩の往復。これくらいの方が気楽で好きだけどさ。

「仲がおよろしいんですね。素敵です」

 ふふ、とカナリーが小さく笑った。途端に空気が春めいて和らいだ。不思議とレイヴンのハープの音の違和感がなくなって、部屋の雰囲気に溶け込む。

「さあさあ。今より語りますのはミーの両親の物語。まずはご覧あれ」

 レイヴンは手品師が鳩を取り出すように帽子を外した。

 ねこみみ? おおかみみみ?

 飛び出してきたのは鳩ではなく、頭の上にちょんと乗った頭髪と地続きの毛色の三角形の動物の耳だ。主張するようにピコピコ動いく様子は、作り物には見えなかった。

「えっ? 耳? 耳! かっわいい!」

 思わず俺はずいっと顔を寄せて、まじまじ眺めてしまう。頭から生えてる! ネロリ系のコロンがほんのりと香った。

「キャワかな……?」

 不意にハープの音色が止まった。レイヴンは照れた上目遣いを向けてきた。

 動物の耳ってそれだけで可愛い。けれど、可愛いと褒めてまっとうに照れられてしまうと、俺まで照れてしまう。

「キャワよ」

 恥ずかしいからふざけた言い方をした。香水の香りがわからないくらいの距離をとる。やっぱり見てしまう。気になってしょうがない。ふわふわして柔らかそうだ。めちゃくちゃ触ってみたい。でも、先日の筋肉おっぱいを思い出して気軽に触りたいと言えなくなった。

「魔族……なのですか? 獣系の……」

 言葉を探しながらカナリーは小首をかしげる。

 レイヴンは指先で弦をポロンする。

「父親は人間、母親は魔族。ミーは種族も性別も半分こ、二倍の子。レイヴンは今までそっとしておいてくれたんだ。ありがとう」

「お前のスタイルを否定する気にはならないけど、歌われると本気で言ってんのか茶化されてんのかよくわかんねぇな」

 レイヴンは無言で短いフレーズを奏でた。きっと照れ隠し。

 のどかな川のせせらぎみたいな静かなメロディが奏でられた。つい聞き入ってしまう。

「父親は山と山の狭間にある村で生まれ育った。赤い花の咲くくぼんだ大地、父は傷付いた母と出会って逃げ出した。母は人間につけられた傷が直らずに死んだ。父も弱って死んだ。ミーは一人、父から貰ったハープを弾いて生きることにしたのさ」

 あれ? まだ話は見えてこないのに生い立ちが完結してしまったぞ。

 カナリーのように人間に変身できるのは高位の魔族だけだと聞く。もしレイヴンの母親が人間に変身できない一般の魔族だとすると、レイヴンの父親は雌の獣とインモラルなことを……? いや、考えるのはやめよう。気にしちゃいけない。高位の魔族の可能性もあるし――待て待て、うまく化けられたら人間に傷つけられる必要性がない。やっぱり一般の魔族だ。とすると、レイヴンの父親は獣とインモラルな行為を――だからやめろ! 歌が頭に入ってこねぇ!

 カナリーが涙ぐむ話をしていたようだが、完全に抜け落ちていた。ごめん、いい話を聞いてなくて。俺は気持ちを切り替える。

「流浪の旅の中、ミーは懐かしいフレーズを耳にしたんだ。森でお花を育てよう。私は白い服を着よう。ああ。父の故郷の歌だ。ミーは殺される運命だったのだ。覚悟を決めたのさ、それが勇者だと思わずに自ら渦中に飛び込んだのさ、つまり話しかけたってことさ」

 聞き覚えのあるフレーズだ。俺はこめかみを押さえる。

「あ? おいおい、どういうことだ? レイヴンの父親の故郷の歌と、俺の幼なじみが歌ってたのが同じ歌だってことか?」

「そうさ、つまり同郷なのさ。ユーの幼なじみの親御さんのどちらかと、ミーの父親は」

「そんなことある? いや、でも、俺の村は流れ者の村だからな。そういうこともあるかもしれない……けど……」

 理屈の上では否定できないが、ぜんぜんピンとこなくて俺は眉間をシワシワにした。

「どうして殺されると思ったのですか?」

 カナリーは静かに手を上げる。それなのに絶対的に人の目を引きつける存在感。

 エモーショナルなハープの音色でレイヴンは空気を牽引しようと抵抗したが、主旋律は途端に賑やかし程度に感じられてしまった。レイヴンは渋い顔をしている。

「父は言った。これは内緒の歌だ。外で歌うと悪魔が来て魂を取られてしまう――悪魔なんかいないんだ。あちこちに潜んでいた暗殺者に脱走者と気がつかれて殺されてしまうだけなんだ」

「そんなのいるの? 俺、地元以外でも歌ったことあるけど、大丈夫だったし」

「自分でも知らないうちに返り討ち」

「一般人と乱闘なんかしないってば――あ、いや……?」

 はっきり覚えていないが、襲われた形跡、争った形跡は多少ある。剣の置き引きだと思っていた人は、もしかすると、俺を脱走者だと思っていたのだろうか?

「……多少、記憶が曖昧で」

 思い出したくなくてこめかみを押さえていたら、カナリーと視線が合った。戸惑った目をしていた。

「それはどういうことでしょうか?」

「あー、その……嫌なことは忘れちゃうタイプってことにしといて」

 俺は曖昧に笑ってごまかす。伝わるニュアンスは本質と異なっても意味は同じだ。嘘はついていない。

「アルは優しくて真面目なんだ。好きで剣を握ってるわけじゃない。魔物の悲鳴を聞くのは辛かったろうに」

 ぴたりと音色が止まる。レイヴンは冷たく見えるほどの真面目な顔で自分の細い指先を眺めていた。

 半分魔物のレイヴンは仲間を殺している俺の愚痴を日々聞いていたわけだ。いや、半分は人間だからどちらの立場かわからない。どちらにしても、俺に理解を示そうとしてくれているだけで気持ちは救われる。

「ありがとう。でも、やったことは変わらないだろ。仕事に誇りはなくても責任逃れなんてダセェことする気はねえよ」

 とはいえ、どうやって受け止めれば良いかもわからないままだ。いっそ全部を忘れてしまえば責任なんか持たなくて良いのにな。もう死んで責任を取る方が早いんじゃないか。……いや、これは病的な思考。そう思えるくらい俺はまだ正常。

 カナリーを見つめる。怒ったり憎んだりしてくれれば楽だ。復讐を望むなら応えたい。

 彼女からの言葉はなかった。何を言えば良いのかわからなくて困惑しているのか。少なくとも、俺が望む言葉はかけてもらえない。

 親や仲間を殺した男へ向ける視線にしては優しい。怖いのか、泣きたいのか、怒ってるのか。苦しいような顔。俺が苦しめている。自分が化け物に思えて切ない。

「さてさて……」

 長くゆっくりしたブレスと気怠いハープの音が、気まずい空気を少しだけ緩和する。

「父いわく、村は遺跡を守っている。母いわく、赤い花は地底に咲く花。母は花を辿って地上に迷い込んだ」

 カナリーは小声で鋭く「もしかして、赤い花はレッドドラゴン……?」と呟いた。

「ミーは詳しく知らない。そのすべてを見たことがない。けれど、レイヴンの幼なじみの親御さんが生きていれば、何かを知っているかもしれない」

「おう。この間帰ったときも元気そうだったぜ。真面目に話せば協力してくれると思う」

 思い出そうとしなくても、目の裏に刻まれているくらいすぐに顔形が浮かんでくる。

 顔色が悪く痩せているけれど、いつも穏やかでずっと微笑んでいる綺麗なおばさん。商人らしい独得の胡散臭さがある美形のおじさん。親が事故死して途方に暮れていた俺を引き取ってくれた、第二の親だ。

「歌の続きはご存じですか」

 カナリーは、柔らかい気遣いを脇に置いたような、鋭く尖った声を出した。それだけ焦った質問だった。

 レイヴンはゆるゆると悠長に左右へ首を振った。

「一度だけ聞かせてもらったことがある。でも、きちんと教えてもらえなかったよ。父もきっと恐れていたんだろうね」

「そうですか……仕方ないですよね……」

 まるで手詰まりと言うように項垂れるカナリー。

 思い出をこんな形で反芻するのが馬鹿馬鹿しいけれど、はじめてクーに歌を教えて貰ったときのことを思い出した。

 ――ママに言っちゃダメって言われてるの。だから、三人だけの内緒だよ。あのね――。

 しゃがみこんで内緒話をするクーのパンツが見えていた。クーが楽しそうにクスクス笑うから、パンツが気になるのをごまかすみたいに一緒に繰り返して歌ったのだ。

 意味なんかわからない短い歌。そんなに危ないものなんて気がつけるはずもない。でも、内緒だとか秘密だとか言っちゃダメって言われるものは、子供にとって特別なのだ。大事な友達と共有したくなる。

「俺、わかるよ」

 首の後ろの方から誰かの暗い声が出てくる。他人事みたいだけど俺の声だ。

 なんで俺は三人だけの秘密を軽々と口にしていたのだろう。それだけ楽しい思い出で、意味をわかっていなくて、自分の中ですっかり遠くなっていたからだ。外でこの歌を歌ったとき、既に俺はもう二度と故郷で同じように過ごすことができなくなっていた。俺はわかっていたはずだ。

「森でお花を育てよう、私は白い服を着よう、皆でお日様を照らし続けよう、まだ見ぬ夜が来ぬよう、皆でお日様を照らし続けよう」

 こんなに遠くなった故郷が近づいてくる。いや、近づかなければならない。そのことが胃にズシンと来るくらいに気重だった。指先が冷たくてジンジンする。

「わかりました。私はその村にいかなければなりません」

 カナリーは俺の顔色なんか見ない。優雅なお姫様の顔ではなく、知識に対して頭から突っ込んでいく学者の顔をしている。相手の心よりも自分が知りたいことの方が大切だから、いつもみたいに優しくない。その非情さで俺を殺してくれればいいのに。

「お日様は照らされるものであり、照らすものではありません。つまり、彼らがプライドをもって象徴的に祭り上げているものです。お日様の対比が夜。これは人間と魔族に置き換えて考えることもできます。地底に咲く赤い花は魔族には普通の綺麗な花です。ですが、人間には中毒性が強く有害なものです。おそらくレイヴンさんのお父様は……」

 ここで言い淀む。言いづらい言葉のお陰で社会的感受性を取り戻したのだろう。カナリーは申し訳なさそうにレイヴンをおずおずと見つめる。

 レイヴンは穏やかだ。曖昧な性別と同じように、曖昧な微笑を浮かべている。

「以上をもちまして閉演!」

 張り詰めた弦が最後に奏でた一音は涙みたいに綺麗だった。

 鼓膜の奥の余韻を楽しんでいるのか、ただ動くのがだるいのか。ため息野のような沈黙が落ちた。立ってるのが面倒で、俺は床にしゃがみこんだ。

「あ、あの……アルさん。お顔が優れませんよ」

 肩をゆするようなカナリーの声に視線だけ上げる。どの位置から見てもカナリーの顔は美の一言だ。

「ああ、そう? どうも」

 俺はこのあと、カナリーを家まで送っていかなくちゃいけない。地底に居るより安全なんて言っていたけれど、家まで送り届けないと安心できない。

「どうしましょう……どうしてでしょう? 具合が悪いところはありますか?」

 対応に困るようなおろつき方だ。俺はそんなに変な状態なのだろうか。急にだるいくらいだ。いや、だるいところを人に見せて心配させるなんてよくない。

「なんでもないって」

 言い訳が咄嗟に思い付かなかったから適当にふわふわ笑う。力が入らない。

「アル、ちょっと休もっ。端っこに座ってないで、寝るならベッドで眠りんしゃい」

 レイヴンに肩を引っ張られる。体は重いけれど、じゃれているみたいで少し楽しい気がする。

「お姫様は今後の予定を立ててつかあさい。ミーたちはまだここに泊まるからいつでも来てね。帰り道はナンパと客引きに気をつけてね」

 ああ、そうだな。カナリーのやることを応援しよう。俺にはそれしかできない。なんて言葉が出てこない。頭の中では思っている。代わりにレイヴンが言ってくれているのだ。俺がダメだからこんなに迷惑をかけている。涙が出てきて止まらない。

 空気を飲み込む間。

「……その。できるだけ早く、アルさんの幼なじみの親御さんにお会いしたいです」

 遠慮をしていたのだろう。声がおそるおそると震えていた。

 しかし俺に気を使う必要はない。俺には気を使われる権利がない。体がだるいのは変だけど、それを言い訳にはできない。俺は死んだ方がいいのだから、死ぬ気で働いて死んでしまえばいいのだ。

「ちょっと時間貰った方が良いかな?」

 レイヴンは俺をあやすように、心配そうに笑いかける。だんだんと申し訳なくて居心地悪くなってくる。そんな優しさは必要はない。俺はいいやつの優しさを搾取している。本当にごめん。

「いや。大丈夫。行こう。明日にでも」

 結局、翌日はベッドから起き上がることができなかった。俺達は三日後に出立した。



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