【三章】勇者と魔王の恋人ごっこ。
俺一人なら歩いて一週間の往復くらいは楽勝なのだけど、同行者が女の子の場合、いつものルートというわけにはいかなかった。
やや迂回する列車に一日乗り、そこから馬車に揺られて丸二日、途中の町の宿で一泊。一番いい馬車を頼んだのに、どうにもクッションが薄くて尻が痛い。でこぼこ道にゆられるたびに尻が削れる気がした。肩も首もガチガチだ。俺は歩いてる方が楽だなぁ……。
「ごめんね。どうにもこうにも、僻地の田舎でさ」
狭い座席は肩を動かしたらぶつかりそうだが、俺は耐えきれずに首を軽く回す。しかし、カナリーはずーーーっと綺麗な姿勢のまま人形みたいに座り続けている。疲れていてもおかしくないのに、口元へ淡い微笑みのようなものを浮かべていた。ずっと同じ顔をしているから多分笑っているのではないと思う。
「大丈夫です。慣れています。公務ではずっと同じ姿勢でご挨拶するんですよ」
「あぁ……見てるだけでなんも考えたことなかったけど、言われてみるとかったるいな……鍛え方が違うんだな」
「アルさんに言われると不思議な気分になりますね。それこそ鍛え方が違うと思いますので……」
鍛え方が違ってもきついことには変わりない。きついからこそ我慢が上手な仕事用の顔が出てくるのかもしれない。話の内容と表情が乖離しているのだ。
「それ、公務のときの顔か?」
「それ、と申されましても。私、いつもと違いますか?」
「ずっと同じ姿勢で同じ顔してる。銅像みたい。俺にはとてもできない」
カナリーは「まあ」と頬に手を当てた。ようやく人形から人間になった。いや、人間じゃないけど。
「そうですね。そんな気分かもしれません。自分では気がつきませんでした。私、どんな顔をしていますか?」
「上品に笑ってる」
「えっと……光栄です」
褒められて、どう返事をしていいのかわからないらしい。視線をおろおろさせながらか細い声をぎこちなく出した。そして急に顔を真っ赤にさせた。
「いけないわ。年の近いお友達っていなかったから、どう喋ったら自然かわからないんです。アルさんとお喋りすると、私ってばなんだかちぐはぐな気がします」
「友達って思って貰ってんの、すげー光栄です。別に気にすることないと思うけどな。急に歌い出すやつとかいるし」
レイヴンとか。
カナリーは笑顔みたいに唇を結んで黙ってしまった。フォローのつもりで言ったけれど、そういえば俺は歌って踊って剣を振って急に歌い出すタイプだった。最近やらなかったから忘れていた。余計だったな。
ガタガタと単調な揺れが耳に付く。それくらい、気まずい沈黙になってしまった。
「でもさ、そういう仕事だと、しんどいけどしんどいって言えないよな。完璧にやりきらなくちゃいけないし」
「そういう風に思っちゃいけないって気持ちにもなりますね。そう思うのは自分が至らないせいだって……」
口元は微笑んでいるけれど、眉が下がっている苦笑。これは反射的に出ている作り笑いではない。素直な感情だ。お姫様のオーラに圧倒されて見落としそうになるけれど、ポンコツでひたむきな女の子なんだよな。
お姫様に自分を重ねて見てしまう日が来るなんて思わなかった。もしかすると、彼女のことを変に矮小化しているかもしれない。共感したこと自体が失礼だろうか。そうは思いつつ、言葉があふれ出てきた。
「俺だけかもしれないけど、仕事って実際にやってみないと本当の意味がわかんないところあるよな。で、やりたくないなって思っても、やらないわけにはいかない状態があったりしてね。無理しているうちにどんどんわけわかんなくなってくんの。だから、カナリーにはあんま無理しないで欲しいな」
言ってて嫌になる愚痴の洪水。そんなのは、何も考えない自分が、受け止めて前向きになれない自分が悪いだけじゃないか。心配しているのは本当だけど。
「でも、あれか。君は自分の意志で研究をしているんだろ。つまりやることを自分で吟味して決める力があるってことだよな。こりゃいかん、余計なお世話だった。ごめん。俺、鬱陶しいな」
恥ずかしい。俺は本当に何を言っているのだろうか。どんな顔をしているのか心配になってカナリーをチラと盗み見たら、思い詰めたような無表情。不機嫌な顔をされるだけで不安な気持ちになった。
これ以上余計なことをするのが怖くなって外を見た。空はどこで見ても同じ。木や山々が地元の風合いに近づいてきた。
「どうして笑うのですか?」
怖がっている風にしか見えないけれど、声は僅かにとんがって非難めいていた。
「えっ。今?」
なんのことだろう。俺、笑って誤魔化そうとしていた? 自分じゃわからない。
カナリーは小さく横に首を振る。体が強ばって縮んでいた。
「いえ。戦うときに、歌って踊って笑っていたから……楽しそうに殺していたから。私には、今のアルさんとそのときのアルさん、どっちが本当のアルさんかわからないんです」
言葉がすんなり飲み込めない。
「俺、笑ってた?」
カナリーはこくんと頷く。
嘘だろ? でも、笑ってるかもしれない。無理してアゲるから笑って歌う。リズムに乗るから踊っている。
魔王城に行く頃には、俺はもう、よくわからなくなっていた。昼間に乗り込まなかったのは起きられなかったから。行けるタイミングで死力を尽くして、無理にでも終わらせたかった。
本当に変だな。魔王城ですれ違ったまま二度と会わなければ、こんなことに気がつかずに済んだ。知りたくなかった。
「自分がどんな顔してるかなんて、鏡見ないとわかんないだろ。怖いな、俺」
返事のしようもないだろうな。独り言みたいで寂しい。
「正直、嫌じゃないか? 親や仲間の敵に馴れ馴れしくされるの。キモくねぇ? 一体どんな神経で図々しくヘラヘラしていられるのかって思わない? 俺は思ってる。だから、用済みになったら俺のこと殺してよ」
今は立場上、俺が彼女を監視している。でも、研究の結果によっては世界が平和になるかもしれない。それでも俺のことは許せないはずだ。親を失う悲しみは深い。殺したいと思われていてもおかしくない。
「やめて! 二度と言わないでください!」
顔を上げたカナリーは声を荒げた。自分の声に驚いた彼女は口元に手を添えて、戸惑いで視線は虚空をさまよった。
「私があなたをどんな風に思っていても、あなたが言うことは私の目的にも信条にも反します。あなたの納得のために私を利用しないでください」
驚くほど激しい口調だった。背筋を伸ばしたままの怒りが、透明な声に乗って鼓膜から俺のメンタルに刺さる。
「そうだな。ごめん」
殺してくれって、そんなことを人に頼むなよ。死にたいなら勝手に死ね、だよなぁ。冷静に考えるとあまりにも自分がバカすぎて笑ってしまった。
「どうして笑うのですか?」
鋭い問いかけが畳みかけてくる。居心地悪い狭い場所で、すっかり疲れていて、なんだか逃げ場がない。息苦しい。
「ごめん。気分悪くさせて。俺って本当にどうしようもないな。ってまたヘラヘラしてるし。自分のことなのに自由が利かなくて、たまにどうしていいかわかんないんだ」
俺は頭を掻いた。すごく孤独な気がする。視界がゆらゆらしているのは目に溜まり始めた涙のせいだ。泣くなんて格好悪いこと、できない。
「……どうして私はこんなに怒っているのでしょうか? 父には、同じように言えなかったのに……」
カナリーの声がくぐもった。ぐすっと鼻をすすり、ハンカチを口元へあてた。震えた呼吸が聞こえてくる。
先に泣いてくれたからよかった。自分以外の誰かが泣いていると、それだけで焦って、自分のことなんかどうでもよくなってしまう。俺がなんとかしなくちゃいけないのは、自分じゃなくて目の前のこの子。
「喧嘩してたの? いや、そうじゃないな……喧嘩できなかったってこと?」
「父が地上に向かうことを止められませんでした。私は反対だったのに。地上に出たら殺されてしまいます。でなければ殺さなければなりません。父にはそんなこと、して欲しくなかった」
叩きつけるような早口だった。可愛い声も音域が一つ低くなると悲痛だ。
気持ちの軽くなる言葉をかけてあげることはできないのか。ペラペラの脳味噌を雑巾みたいに絞る。
「それってさ、一人で決めたことじゃないんだろ。いわゆる世論みたいな、そうしなきゃいけない状況だったんじゃないのかな」
「それがわかってるから止められなかったの!」
むずがるように声をあげる。こんな風に大きな声を出す子なのか。いや、誰だってそうなることはある。俺は彼女をなんだと思っていたのだろうか。
「ごめんなさい。取り乱して……」
彼女は俺から顔を背けるように扉側へ体を捻った。涙混じりの悲しい呼吸が聞こえてくる。本当はきっと一人ぼっちで誰にも見せずに泣きたいのだろう。
俺は窓の外を見た。曇り気味の窓に映るカナリーの姿を見ていた。
「いや。色々言っちゃってごめん。でも、カナリーのことがちょっとわかって嬉しいかな。なんも知らなかったから」
「知ってどうするのですか?」
強い拒絶を感じて俺は息を飲み込み、カナリーを振り返った。
カナリーの涙は止まっていた。目元はわずかに赤くなっていた。俺を見上げる瞳は責めている。それでも落ち込まずにドキッとしたのは、拗ねているように見えたからだ。俺は嫌われていない、と直感した。
「知らない方がよろしいんじゃないでしょうか。だって、あなたに命令を下す方がいらっしゃるのでしょう? やらなくてはいけないときに手が鈍るかもしれませんよ」
てやんでい。初見の段階で既に鈍ってるんだよ俺の手は。見た目っていう最強の防御壁に負けたんだよ。同族の格好している上に可愛いんだから、殺せっていうのが無理な話だ。だからずっと悩んでたんだよ。魔族の格好とか俺が一番嫌いなタイプのチャラい男の格好で出てきてくれれば何も考えずに済んだのに、今更何言ってんだ。
「やらなくてはいけないときはこない」
カナリーは相槌も打たず、黙って俺を見つめる。プレッシャーで緊張したけれど、言葉は思った以上に軽く出てきた。飄々として見えるかもしれない。案外そうでもない。
「基本的に、俺は指示に従って仕事する。でも、やりたくないことはやらないことにしたんだ。内容によっては逆らうつもりだよ」
覚悟を決めたというより、俺の友達は説得すれば言葉が通じると信じている。
「え」とカナリーが息を吸い込みながらびっくりした声をあげた。見開いた目はこぼれ落ちそうなくらいに大きい。
「カナリーを殺したらみんなの損だと思う。研究の答えはまだわかんないけど、それはこれから証明するんだろ? それに、俺が殺したくない。カナリーとレイヴンを殺したら、
もう俺、まともでいられないと思う。だから、最悪の場合はみんなで逃げようよ。仲良くトンズラじゃい」
俺はさっき怒られたばかりなのにヘラヘラ笑い飛ばしてしまった。数日布団にくるまってそんなことをずっと考えていたけれど、言葉にすると現実みがなくて面白かったのだ。逃げられる自信も守り切る自信もあるけれど、ター君やカイトと対立はしたくない。だから、説得する。今はそれしか生きる希望がない。
ピリピリしていたカナリーの横顔がふわりとほぐれた。俺につられたのか、フ、と微かに笑うような息を吐いた。
「心には失われた自由を取り戻そうとする弾性があります。でも、自由が失われているから、本当に伝えたかった言葉が消えてしまうんです。嫌だとか、助けてだとか、悲しいだとか、言えなかった言葉達です。だから弾性は正しく作用しなくなるんです。でも、アルさんはご自身で跳ね上がりました。本当にお強いんですね」
「カナリーもね」
「アルさんに引っ張られたんだと思います」
カナリーの目元が和らぐと、ホッと肩の力が抜けた。押し殺していた怒りや悲しみをぶつけてくれたのは、きっと光栄なことなのだろう。
カナリーはためらいがちに口を開いた。
「あの……オリハルコン。この間、お話できなかったことなんですけど」
「ああ。あの日はごめんな。なんか……なんだろうな? 恥ずかしいんだけど、変に落ち込んじゃってさ。起きらんなくなっちった」
「お疲れのときは休まないと」
カナリーはおっとり微笑む。自分ではぜんぜん起きられないもどかしさに嫌気がさしていたのに、周囲はちっとも俺を責めない。それだけで泣きたくなってしまう。
「正確なことは地底に戻って資料を見ないとわからないのですけれど、普通、勝手に持ち出して問題にならないと持ち出しに許可が必要にはならないと思うんです」
「そうだなぁ。案外トラブルが起こってから対処するよな。魔族の危機管理感覚が人間と近ければ、の話だけど……」
「あまり沢山の人間とお話ししたわけではないのですが、そう変わらないかと」
「良いのか悪いのか。まあ、良くはないか」
カナリーはおかしそうにクスクス笑う。
「私の考えでは、勇者の始祖はオリハルコンを地底から持ち出した魔族かもしれません」
「俺はなんもわかんないなぁ。もしそうなら、なんでだと思う?」
「どうしてでしょうか……」
顎に手を当てて窓の外へと視線を向けるカナリー。考え事をはじめると、途端に研究者の鋭い顔になる。
「逆から考えてみますね。魔族は地底に封じられていて、人間と戦ってもう一度地上に戻ろうとする改革派と、人間に関わらず地底で静かに暮らしたい保守派に別れています。そのどちらでもなかった」
「人間と戦わず地上で暮らす、ってこと?」
「はい。ええとつまり、地上に上がってきた魔物を倒すことと引き換えに、人間の世界に紛れて生きようとする高位の魔族がいた、ということになりますね。ここからは地底に戻って資料を探さないといけませんが……」
「この後、地底に戻る?」
観光くらいの気持ちでついていってもいいかなぁ。それとも、魔物のことを知ったら俺はまた落ち込んでしまうのだろうか。
カナリーは軽く首を横へ振った。
「いいえ。改革派の残党が私の命を狙っています。返り討ちにするのも心が痛みますし、研究の結論が出るまでは地上で人間のフリをしている方が安全なんです。だから、ごめんなさい。後回しになります」
「ああ、それは仕方ない。命狙われるのは穏やかじゃない話だね。なんなら俺に言ってよ。汚れ仕事は得意だよ」
「……ええ。味方ならば、誰よりも心強いですね」
カナリーの声のトーンがわずかに落ちた。失った者に思いを馳せたのだろうか。
「でも、私はそういった手段をとりたくありません。もう言わないで欲しいです」
「わかったよ」
でも俺はカナリーが殺されそうになったら勝手に動いているだろう。それで彼女に恨まれたり詰られても構わない。いつの間にかそんな覚悟が芽生えていた。
償いなのだろうか。そんなことをしても失ったものは戻らないことはわかっている。だけど、俺は彼女のために剣を振るつもりだ。
***
馬車から降りると開放感で満たされた。棺桶に詰め込まれるってあんな気分なのだろうか。両手を伸ばしたいところだが、カナリーをエスコートするのが先決だ。
外をのぞき込むように顔を出していたカナリーに手を差し出す。慣れた調子で「ありがとうございます」と微笑んで手を重ねてきた。逆に俺が緊張してしまった。
「えっ! 嘘! アル!?」
すぐに空気へ散ってしまいそうな柔らかい声。振り返ったときの俺は、不思議と隠したいものを見られてしまった気分だった。
クーと、バスケットを持ったスパロウがいた。クーは明るい色のワンピースだし、スパロウのバスケットはレースがついているからクーのものだろう。きっとデート。
クーのお腹の丸みを見て、俺は言葉を出せないくらいにダメージを受けていた。形として現実を突き付けられている。
スパロウは、唇を震えさせながら俺を指さした。そして横隔膜をひくつかせたようなひっくり返った声を出した。
「おま……えっ? 駆け落ち? そうか! お嬢様と駆け落ちか! やりやがったな!」
「違う違う! 旅行! まずはただいまくらい言わせてくれよ!」
「あ、そ、そうか。ごめん……おかえり」
心ここにあらずとスパロウは俺とカナリーをぼんやりした丸い目で捕らえる。クーも両手で口をおさえながら「おかえり」とはっきりしない調子で言う。
俺は手のひらを上に向けて、カナリーを示した。俺は今から嘘を吐く。
「紹介するよ。彼女のカナリー」
俺にとっての帰省旅行に出る前、カナリーに彼女のフリをして欲しいとお願いした。なんでそんなことをしたかって、フリーで帰ったら二人の邪魔になるからだよ。カナリーは戸惑っていたが、条件を飲んでくれなければ連れて行かないとごねたら渋々了承した。
「ごきげんよう。お会いできて光栄です」
日常で何気なく目にすることはないような軽やかで綺麗なお辞儀。彼女は何気なくしているけれど、挨拶がワンランク上だ。
「お、おぉ……ごきげんよう……アルの幼なじみのスパロウです」
「クー・クーですっ! は、はじめまして!」
二人はかっちこちに体を強ばらせている。この村に流れ着いたお嬢様やお坊ちゃまがいないわけでもないが、カナリーのまとっているオーラが一般レベルの上流ではないのだ。そりゃお姫様だもんな。俺もその肩書きの人には二人しか会ったことないよ。
「なあクー、おばさん元気か」
「え? うーんと、ぼちぼちかな。季節の変わり目だから眠そうだよ」
「相変わらずって感じか」
カナリーの母親は、いつもニコニコしているけれど、月の半分は引きこもって暮らしている。昔は体が弱い人なのだと思っていた。まあ、悪くなっていないという意味で変わらない様子なのはよかった。
「おばさんに相談したいことがあんだ」
「こっちに戻ってくる、ってわけではなさそうだな……」
スパロウは小声で言う。目元が暗くなった。俺はお前の敵じゃないよ。でも、ここにいたら迷惑かもしれないな。
「そだな……」
俺は頭を掻く。三度目の正直で、今回の帰省が最後になるのかもしれない。ほんのりとそんな気がしてしまった。
クーが俺の袖をちょんと指の先でつまんで引っ張る。胸が疼くような懐かしい癖だ。わーって叫んで泣き出したくなる。そんなことしないよ。
「あのねあのね。私たち、ちょうどピクニックに来てたの。せっかくだから一緒しない? それからでも遅くないよね?」
キュンと声がワントーン上がっている。本当に嬉しそうな声に、自分が拒否されていない安心感で満たされた。
「いいの?」
「いいよぉ、久しぶりに会えたんだもん。いっぱいお話したいよ。それにカナリーさんのことも知りたい!」
カナリーとクーはさほど年が変わらないだろうけれど、クーは幼く見えてしまうくらいにはしゃいでいた。
「なんだか楽しそうですね」
失礼。初めて大きなお店に行った子供のように、カナリーも目をキラキラさせている。視線はあっちこっちの景色に飛んでいた。そうか、地底とも都心とも風景が違うから、それだけで目新しいのだろうか。こんなド田舎ですら物珍しいって……いい場所だけど。
少し歩くと雑木林に辿り着いた。民家が増えてきたからこそ意図的に残された木々。俺達は少し大きな木の根元に座り込んだ。子供の頃には、森の中の小高い丘の大木だと思っていた。毎日のように遊びに来ていた、懐かしい場所だ。見上げた葉の色は黄色掛かり、葉先から乾燥して色が変わり始めている。
思った以上にカナリーは二人とすんなり打ち解けた。よく考えればお姫様が人見知りでおどおどしていたら職務に差し支えがある。俺が怖がられて警戒されていただけなのだ。目の当たりにすると傷つくことばっかり。
「お弁当、実は作り過ぎちゃったの。こんなことがあるなんて想像もしなかったけど、ちょうどよかったな」
なんて言いながら広げるクーの手作り弁当は本当に気合いが籠もっていて、内容もさることながら、癖でうっかり三人分作ってしまったような量だった。
「完全に弁当に呼ばれたなぁ」
俺は嬉しくてケラケラ笑う。またこんな風に過ごせるなんて、この間帰ってきたときには想像もしなかった。
「調子のいいこと言いやがって」
スパロウに笑って肩を小突かれる。二人とも笑っている。
空気の中に一体感があった。久しぶりに自分の体と心がまともに合致した気がする。俺はここに戻ってきて、いいの?
「あ。カナリー、これひいて」
粉砂糖がたっぷりまぶされたものがあったので、カナリーの膝の上にハンカチを広げてかけた。今日もドレスは黒、肌寒くなってきた今の時期にぴったりな少し起毛した素材。明らかすぎるほどに砂糖を落としたら目立つぞ。ニコッとして「ありがとうございます」とカナリーに言われるだけで、俺は嬉しかったりする。
クーがこちらを見て、それからぎこちなく目を逸らした。気がついたスパロウが視線だけで顔色を確認すると、ぴりっとした空気が走る。わけもわからないカナリーは眉を下げていた。
なにこの、連鎖的に空気が悪くなる感じ。やっぱ俺は邪魔なんだ……。
「えと……カナリーさんは、アル君とどこで出会ったの?」
思わずギクリとしてしまった。そんなところまでディティール詰めてないよ。
「最初は……別荘ですれ違って」
初々しく照れているように見えるが、実体はしどろもどろだろう。ひとまずグッジョブだ!
俺は「そうそう」と相槌を打つ。地上に建てられた魔王城は別荘と言えるかもしれない。あながち嘘でもないな。
「わあ、ロマンチック!」
胸の前で指を組んでぽーっと虚空を眺めるクー。クーの家も海近くに別荘を持っているので、身近な感性で想像できるのだろう。彼女、田舎の豪族なのだ。農業や家事の手伝いも趣味の範疇だったりする。
「それから、王都の図書館ですれ違って……今日みたいにハンカチを差し出していただいたのが話すきっかけでした」
カナリーは情けなくクスリと思い出し笑いをした。いい思い出には入れてもらえていたらしい。
クーは微笑んでいる。しかし、大きな目の温度がスーッと暗く引いていった。
「そうかぁ……アル君はね、昔からみんなに優しかったの。私が泣いたら真っ先にハンカチ出してくれてね……」
俺が習慣にしていたことが、クーにとっての思い出にもなっていた。心臓がぎゅっと握られたように切なくなる。
「足が速いからな、アルは」
スパロウは一つ低い声で呟く。
俺はスパロウの真似をしてハンカチを持ち始めた。それなのに、スパロウよりも俺の方がハンカチを差し出す機会は多かった。
俺的にはスパロウへのリスペクトだった。クーの気が引きたくて始めたわけでもない。しかし、この溝ばかりはどんなに会話を重ねても埋められなかった。
足は俺の方が早いけど、お前は手が早いだろ。なんて言ったら殴り合いだ。泥沼の戦いでクーに負担をかけたくはない。
カナリーはぼんやりと木の葉の先を眺めていた。考え事をしている横顔だ。だから妙な空気感を察しなかったのだろう。
「最初はアルさんのことを怖い方だと思いました。でも、ハンカチを差し出していただいたとき、そうでもないかもしれないって感じたんです。こんな綺麗な場所で素敵なお友達に囲まれて育った方なんですもの。悪い方のはずがありません」
「アルが怖い? ……ああ、わかったぁ! 軽そうって感じだね。あははっ! アル、ちょっとそういう感じあるよねぇ」
心底おかしそうにクーは笑う。無邪気な笑い声を懐かしみたいところだけど、ネタが俺いじりってのはどうよ?
「おいアル、チンピラって言われてるぞ!」
「誰がそこらへんにいる三下だよ、いい加減にしろ。チンピラは見るからに悪そうな分だけ目立つだろ。どちらかっていうと俺はいい加減に見えるだけだ。もっと影薄いわ!」
二人ともお腹を抱えて笑っていた。まあ、いいか。ネタは自虐だけど俺も楽しいんだ。二人が俺のことをしっかり見てくれてるってるってことだから。カナリーの横顔がしていたのは、きっと俺の言い回しのせいだろう。
ピクニックのあとはカナリーを観光で引きずり回し、さほど特筆することもない村の中を紹介したら、足なりにクーの家へと辿り着いた。その間に俺達はすっかり打ち解けていた。時たま強烈にぎこちなくなるけど。
「素敵なお屋敷ですね」
ここまで見た普通の家に比べると、クーの家は一回りほど大きく、庭も見事に手入れされていた。屋敷と読んで差し支えない。
「ありがとう。あのねあのね、アルはあっちの離れに住んでたんだよ」
クーは簡易な造りの小さな建物を示した。窓は小さく、汚れて煙っている。
「ええっと……使用人のお部屋ですよね?」
「違うよぉ!」
カナリーは間髪入れないクーの否定に目を白黒させていた。カナリーの方が正しい。あれは本来、使用人用の小屋である。
「いや、違くないだろ」
スパロウがトントンとクーの肩を叩く。
「ん? あ、そぉか。普通はそうだよね。んー、でもね、アル君がね、そこがいいって言ったから、アル君のお部屋になったの」
「は、はい……ええと……はい?」
カナリーの長い睫が困惑した瞬きで細かに揺れる。
スパロウは腕を組んで唇をひん曲げた。
「これ余計わかんなくなるやつだ。おいアル、ちゃんとカナリーさんに話してんの?」
「え、いや……別に隠しているわけじゃないんだけど」
「ちゃんと話した方が良いぞ。大事なことだろ。しっかりしろよ」
肘で小突かれてしまった。結婚を前提に付き合っていたら話すだろうけど、別に本当の彼女じゃないからなぁ。
「お尋ねしてもよろしいですか?」
ことん、と首を傾げるカナリー。
聞かれりゃ話すけど、話したところでどんな空気になることやら。
「ああうん。俺、両親が移動中の落石事故で死んじゃってさ。そのときに俺が勇者の血筋だってわかったそうだ。ややこしい話し合いがあったそうだけど、クーん家が身元を引き受けてくれたから俺は引き続き故郷で静かに暮らせたんだ。で、そこに住んでた」
俺の王都での暮らしは二年半。もし人生の半分以上をしんどい修行とちやほやの繰り返しで過ごしていたら、俺は歪んだ性格になっていたかもしれない。想像すると改めて恐ろしい。豊かな時間を過ごさせてくれたクーの家には心から感謝している。
「別に遠慮してたわけじゃないんだ。ただ、こっちの方が落ち着いたんだよね」
家の中で何人もの使用人達が常に働いている状態は居心地が悪かった。俺はクーの実の家族ではない。あくまでも客人だ。誰もが親切だったけれど、俺はずっと身の置き所がわからなかった。
カナリーはゆっくり頷く。
「知れば知るほど不思議な気持ちになります。アルさんは一人でいるとき、どんな表情をされているんでしょうね」
「少なくとも笑ってはいないかな」
「いつも楽しそうなのに?」
「いや、一人で笑ってたら怖いだろ」
三人ともクスッとした。ちょっとウケた。当たり前のことを言っただけなのに、なんで笑うんだよ。
「お部屋、まだそのままにしてあるけど……やっぱり、もう、いらないんだね」
クーは母親似のふらりとした足取りで屋敷の中へ入っていった。
***
クーの母親は以前より少しふっくらしていた。相変わらず透明感のある美人だ。父親は恐ろしいほどに変わらなかった。美男美女の夫婦だ。
手紙一本もよこさない突然の来客なのに、大変快く迎えて貰った。ここ数年で一番癒やされる団欒だった。
しかし、カナリーが旅の目的を尋ねた瞬間、クーの母親は血相を変えて部屋に逃げ隠れてしまった。わけがわからないクーとスパロウは戸惑うばかりで、クーの父親は普段見せないような厳しい顔をしていた。
「私、少し怖くなってきました」
応接室で向かい合う俺とカナリー。空気が重くて胃がキリキリ冷えてくる。この長い放置時間は、両親が背負った何かを娘と婿に聞かせているのかもしれない。
カナリーは膝に手を置いて、遠くを眺めていた。爪先はぴったりと揃えられている。ただ座っているはずなのに、どうしてこんなにも絵になるのだろうか。人形みたいだ。
「名前すらわかりませんが、恐ろしい集団がいるということはわかりました。一体何が恐ろしいのかすらも具体的にはわかりません。わからないこと尽くめです」
「でも、想像力を働かせることはできる。悪夢みたいな悪い想像をな」
カナリーの肩がぷるっと小さく震える。心細く肩をすぼめたまま、爪先へ視線を落とした。
「どこかに潜んでいて、集落から逃げ出した者を探して抹殺することは把握しました。集落に近づこうとした者も同じ末路を辿る気がします。だって、あれだけ探したのに図書館には何もなかったのですもの」
「資料も見つけ次第消してんのかな」
「ターミガンさんの言っていた資料の欠番と合致しますね。どうしてそこまで隠れようとするのか……」
ため息のように末尾が消えた。答えが出なくてカナリーの口はぴたりと閉じてしまう。
「なあ。実体があるなら、暴力には暴力で返せばいい。いざというときは俺に判断を任せてくれるか」
相手はヤバくて守りたい人達も安全じゃない。病むほどやりたくなかったことなのに、今は不思議なくらいにすんなりと決意を固めることが出来た。
カナリーの目が怒っていた。
「それはどういう意味でしょうか」
「襲われたら問答無用で殺すけどいい?」
「どうして私に聞くんですか?」
キレ気味の質問返しに、俺は言い訳臭く視線を逸らす。
「だって、これはカナリーの研究だろう。俺は助手……というほどは有能じゃないな。用心棒? 勝手に判断する権限ないだろ」
「なるほど、意味はわかりました。アルさんは卑怯です」
あまりにも端的で冷たい口調に背筋が強ばって、そのまま凍った。厳しい瞳に射抜かれて俺の心臓が縮む。
「自分の身は自分で守ります。殺すことを正当化するために許可をとらないでください。やりたくないのでしたらそう仰って。私を共犯にして罪を軽くしようとなさらないで」
反論したくて口がパクパクする。悲しくて喉が張り付く。俺はそんなつもりで言ったのか? 違う! でも、本当のところはどうなのだろうか。彼女に許可を出してもらえば、俺のすることは彼女にとって正しくなる。彼女が判断したことを俺が実行するだけならば、罪は二人で半々だ。気がつかないうちに、そんな風に考えていたのだろうか。
「アルさん。調査を協力していただけるのは嬉しいですが、私を立てる必要はありません。見逃されている身です」
彼女は厳しく凜としている。優しさはない。逆鱗に触れてしまったのだ。
「立ててるわけじゃない……罪悪感だよ」
喉をこじ開けると掠れた声が出た。
本当は殺したくない。殺さなくて良いならやらない。でも俺に押しつけるんだろ。俺にしかできないから。
躓いた間が落ちた。カナリーは頭を下げる。俯いただけかもしれない。
「ごめんなさい。私……止められなくて。酷いことは言わない方がいいでしょう。言葉は取り返しがつきませんから。言ってからでは、遅いですよね」
「カナリーは何も間違ってない。気にすることないよ」
カナリーにとって俺は笑いながら仲間を殺した犯人だ。彼女が俺に対して抱く怒りは、内容問わずすべてに正当性がある。
もう聞くこともない。彼女に何かがある前に俺が武器をとらねばならない。俺はもう何人殺しても一緒だ。彼女には殺させたくない。例え彼女になぜ殺したのだとなじられても、必要だと思えば殺そう。それだって俺にしかできないことだ。
沈黙。何か喋ろうと思えども、何を言って良いかわからない。何を言っても滑ること必至。気まずい空気。
ガタン。扉が強く押される一度目のノック。反省したように力加減を調整した二度三度のノック。「はい」と返事をしたら、スパロウが入ってきた。眉間に深い皺が寄っていた。
「放っといて悪いな」
「客人でもあるめぇよ。俺達は二人で楽しく過ごしてたから気にすんな」
設定上恋人風に言ってみたが、キモがられていないか心配だ。カナリーは無言で公務スマイルを浮かべた。さっきまで自然に話していたスパロウには作り笑いだとわかったらしい。空気がぎくしゃくしている。
「クーは義理母(おかあ)さんと義理父(おとう)さんと一緒にいる。さっき出かけた」
「ええ? 嘘? なんで?」
俺の素っ頓狂な聞き返しに、スパロウは腕を組みいらいらと指先で小刻みにリズムを取った。なにやら持っている筒状の紙をペコペコとへこませる音まで聞こえてくる。
「失礼を承知で率直に言う。カナリーさんが例の村の人じゃないかって疑ってるんだ。二人が無事に王都に着いた確認がとれるまで帰ってこないつもりらしい」
「ぁ……そんな……ご迷惑を……」
カナリーの顔から血の気が引いた。責任を感じたのか、神経質に瞳が細くなる。
「こんなことを言うのは心苦しいが、二人にお願いしたいことが三つある。まず夜が明けたら帰って欲しい。次に王都についたら連絡が欲しい。最後に、口外しないで欲しい」
「もちろんです、もちろんです。本当にごめんなさい。私のせいで、大事な時期の奥様に大変なご迷惑をおかけしてしまって」
怯えたようにカナリーの声が震えていた。
一種の拒絶を含んでスパロウの目がこわごわとしている。世界の見方が一瞬で変わる話をされたのか、それとも、順調だった自分の身の回りを荒らした相手を責めているのか。どっちも嫌だ。
「カナリーさんは、村の人じゃないですよね?」
「あ、あの。私は……違います。本当に村のことを調べているだけなんです」
「どうしてそんな危険なことを?」
スパロウの強い問いかけ。『どこの誰ということを証明しろ』なんて聞かれると思っていた。自分の思い違いが甚だ恥ずかしくなった。こいつは根の良いやつだ。疑い深いやつじゃない。そんなことはとっくに知っているはずだった。後ろめたさが俺を疑い深くしたのだろうか。
「もし興味本位で調べているなら今すぐ止めた方がいい。俺だってちゃんと知ったわけじゃないけれど、あの怯えようは異常だ」
「本当にごめんなさい。誰かに聞けばわかるって、簡単に考えていたんです。こんなことになるなんて、一体どうしていいのか……でも、私には必要なことなんです! どうしても知らなくちゃいけないんです!」
カナリーはこのままわっと泣き出しそうだった。ぐっと息を飲み下す音が聞こえた。
「この子には事情があるんだ」
二人分のシリアスな視線が一気に集まる。別にスパロウがカナリーを責めているわけじゃないけれど、庇わずにはいられなかった。
「事情は俺がちゃんとわかってる。でも今は訳があって言えない。ただ、絶対に誰にも害は加えないことは約束する。もちろん彼女の身は俺が守る。お願いだ、俺を信じてくれ」
俺は真っ直ぐにスパロウを見つめた。
スパロウはムッと唇を結んで、紙の筒で俺の頭をスパンと叩いた。痛くはないけれどいい音がした。
「馬鹿野郎! 俺はお前を信じてる。お前が信じて連れてきたカナリーさんだって信じてる。そもそも本当に嘘つきならこんなヘマしないだろ」
「はぅ……」と、カナリーの小さい悲鳴。ささやかながらダメージを受けたらしい。
「それでも念に念を重ねる状態が異常なんだ。なあ、魔王退治の次はこれかよ。クーにどれだけ心配かければ気が済むんだよ。お前の連絡を待つのだって辛いんだぞ」
スパロウは叩きつけるように言う。言い切ってから両手で顔をピシャリと叩き、長いため息をついた。
「ごめん。アルの方が辛いよな」
「いや。どっちがってもんじゃないよ。きっとお互い様だな。俺もわかってなかった」
「言うぜ。そんな殺伐とした目つきしてさ」
「俺そんな目ヤバい?」
「こないだよりはマシかな。でも怖い」
しかめ面で言われてしまった。そうかな。俺は眉間を指で揉んだ。
「これも勇者の仕事なのか」
「まあ、結論的にはそうだね」
「今度の相手は魔物じゃなくて人間だぞ。お前、本当にやるのか」
「人間も魔物も命の重さは変わんないよ」
言葉足らずの気がした。でも、それ以上の言い様が見つからない。本当になにも変わらないのだ。人間も魔物も。
スパロウは渋い顔をして長く息を吐いた。
「こないだ帰ってきたときに雰囲気変わったって言っただろ。あのときのアル、きっとすごく疲れてたんだな。お前が気楽に帰れる場所にしておきたいってずっと思ってた。でも、帰ってきたらアルを僻んでる自分に気がついたんだよ。本当に、ごめん」
影の差す自嘲的な笑い。スパロウはうっすらと口元に笑みを浮かべている。こいつも俺がいない間にクーを支えていたのだ。見ていないからって、苦労を一蹴することはできない。
「謝られることはなんもないって。俺が甘えてたんだ。故郷に帰ればすぐ昔に戻れるって思ってた。最初は変化が受け止められなかったけど、今回帰ってきて大したことじゃないって思ったんだ。時間が経ってちょっとは変わっても、俺達、昔のままだよな?」
「当然だよ。マジでいつでも帰ってこいよ。骨になる前にな」
スパロウは冗談のつもりだろう。でも、俺は形だけの笑いを作ることしかできなかった。死んだら故郷に骨を持っていって欲しいと旅に出る前にター君に頼んだのだ。この次だって本当に生きて帰れるかわからない。今回が最後の帰省かもしれない。
いや。違う。死んでたまるものか。俺は何があってもまたここに戻ってくるんだ。変化は拒絶じゃない。いつでも帰れる場所がある。心の鉛が一つずつ消えていく。俺は一人じゃない。俺は小さい声で「ああ」と返事した。
スパロウはカナリーに紙の筒を手渡した。
「これ。義理父さんから。例の村の地図だ。名前も言いたくないってさ」
「えっ! ありがとうございます!」
言うが早し、カナリーは不器用に紙を広げてベコベコに折れた地図に顔を近づけた。
「近い近い、目が悪くなるぞ」
俺は地図の端をトントンと指先で叩く。
「あっ、いけませんね。つい……」
はやる気持ちを押さえつけて小さな深呼吸。興奮で頬を赤くしたカナリーは再び地図へ視線を落とす。
スパロウはクスリと微笑む。
「落ち着いたら俺達が王都に行くよ。そのときは案内頼んだぜ。カナリーさんもぜひ。次は本当にアルの恋人だと嬉しいかな」
急に呼ばれてカナリーの肩がビクッと跳ねた。何の話かわかってないだろうな。
俺は羞恥心で顔が赤くなった。
「ひぃ、バレてた……あんなに一生懸命彼氏面したのに……」
「バカが。彼氏面は自然になるもんだよ」
他人を巻き込んでまで下手な小芝居を打ってバカみたいだ。俺が一人でから回っていた気がする。
やけにカナリーは静かだ。うずくまるみたいに肩をすぼめていた。頼み込んだから演技に付き合ってくれたが、俺のことは好きになるどころか憎んでいるはずだろう。
スパロウには悪気はなかっただろうが、マズいからかい方をしてしまったのだと気がついたらしい。気まずそうに一旦下がってから、別々の寝室を案内してくれた。
***
宿に戻ると、女将さんに置き手紙を渡された。
「あなたに、って。お友達? 宛名も書いていないのよね」
飾り気のない白い封筒、赤い蝋で封。署名はなく、俺の名前だけ書かれている。窓へ向けて光を当ててみるが、中身は透けなかった。謎。
「多分そんなところですかね。ありがとうございました!」
俺はへらへら笑いながら談話室のソファに腰掛けた。カナリーも自然に隣に座る。慣れてきたけれど、その慣れが嬉しい。
女将さんは何気なく手元をのぞき込もうとしてきた。俺は手紙を伏せるように膝の上に置いた。
「それと、レイヴンさんはしばらく戻っていないわよ。すぐ戻るって言ってんだけどねぇ。お部屋はそのままにしてあるわ」
「えっ? ……大丈夫でしょうか。何かに巻き込まれていないか心配です。あぁ、もしかして……!」
両眉を下げると口元を隠すカナリーを、手を立てて制止する。まさかそんなに余計なことを言うほどうっかりしていないとは思うけれど、騒ぎ立てられては困ってしまう。
「やあ、ご迷惑おかけします。友達のところだな。こっちに転がり込んでくるときもこんな感じだったでしょ? 大丈夫大丈夫、いつものこと。あいつ、そういうやつ。ねっ」
俺は女将さんへ見えないように薄く手紙を開く。しかし女将さんは頑として去らなかった。頼む、気持ちを汲んでくれ。
『貴様の友人を誘拐してやったぞ! おいしいお菓子も用意してます』
細くて綺麗な字で書かれていた。内容、ほぼない。俺は気が抜けて「ウィヒヒ」と変な笑いを零してしまった。
「え? なになに?」
女将さんは異様なものを見るようだ。俺、そんなヤバい笑い方してました?
「やあ、もう、俺の友達が可愛くて」
カナリーに手紙を渡す。一息もかからず読み終わる内容だ。一度首を傾げ、また首を傾げて、と繰り返しているのは、何度も読み直しているせいだろう。
「私には怪文書です……」
女将さんも回り込んで読んだが、冗談だとわかったら興味すら消え失せたらしい。するりと仕事へ戻っていった。
まあ、大丈夫だとは思うけど。レイヴンは半分魔物だから、話はややこしい。
「カナリーも来る?」
「はい。行きます。心配です」
「心配するこたないよ。じゃあ、荷物置いて支度したら例の階段で待ち合わせしようか。家まで送る?」
「あ、大丈夫です。私、このまま行けます。荷物だけこちらに預かっていただいてよろしいでしょうか?」
「オッケー。ガッツあるよね。無理はしてない?」
「はい。問題ありません。心配していただいてありがとうございます」
苦く微笑んで、カナリーは俺の耳に唇を寄せた。
「でも、私、伊達に地上にいませんよ」
内緒話の艶っぽい低めのささやき。全然甘い内容ではないのに、耳に吐息が吹きかかって背筋がゾクリとしてしまった。
***
第二騎士団本部はいつも通りだ。古くさい建物の高い天井の中は、なんとなく仕事していなさそうな平和で緩い空気が流れている。
顔見知りのおじさん職員に「ターミガンさんは会議室ですよ」と言われた。俺はずんずん本部の仲を進んで会議室に向かう。机、椅子、窓、黒板。特に面白みのない室内だ。
カナリーは不安げにきょろきょろする。
「誰もいませんね……?」
「この下」
俺は中途半端な模様の描かれたカーペットをめくる。下には四角い扉が隠されていた。取っ手に手をかけて「よいしょっ」と持ち上げたら床がパカッと開く。のぞき込むと、やや急な階段があった。
「え、えー!? 隠し通路……!」
カナリーは驚きすぎて大きな声が出ないみたいだ。かすれた悲鳴みたいな声を、口に宛てた両手の隙間からこぼしていた。
「俺が先に行くから扉閉めて貰っていい?」
「は、はあ……あ、取っ手ありますね。真っ暗になりませんか?」
「なんか光るからそれとなく見えるよ」
「なんか……それとなく……?」
壁は肩がぶつかりそうなほどに狭く、息苦しい階段。
疑うように繰り返してゆっくりと扉を閉める。壁やステップの端がほんのりと光った。「あ、本当だ……」という呟きが後ろから聞こえてきた。
壁紙もなにもない打ちっぱなしの室内。声は響くし埃っぽいが換気はされている
「あの、第二騎士団って書類管理をされているんですよね……?」
「そうだよ。それも重要な仕事。ただ、そっちはいわゆる表向きの仕事ってやつ。こういう部署、魔族の社会にもあるんじゃない?」
「諜報部員も隠し扉もありますけど……ああ、そうですね、あります。ただ、初めて来るところで見せていただくとびっくりしますね」
「俺も最初は目を疑ったよ」
扉は目の前だ。重たい扉をゆっくり引いたら歯ぎしりみたいにギギギと鳴った。隙間から流れてくる室内の空気が甘い。スナック菓子の匂いだ、これ。
ちょうど借りてる宿の一室くらいの大きさで、天井がやや低い。ジャンクなお菓子がいっぱい乗った会議机を挟んで、レイヴンとター君がカードゲームをしていた。べらぼうに楽しそうだ! しかも、レイヴンは帽子をとって三角形の耳を晒しているじゃないか。
「よっ。おつかれちゃん。そこら辺に椅子あるからお好きなのどーぞ」
片手を上げて笑った後、そこら辺をふわふわ示すター君。
カナリーは肩幅を縮めて「はじめまして」とター君へ深々頭を下げる。二人は簡単な自己紹介をしていた。
俺は適当に詰んであった椅子を二脚取って机の脇に運ぶ。
「アル! 来るの遅すぎなんだけど!」
レイヴンは机にカードを叩きつけて、俺の脇腹へ軽いパンチを食らわせた。一度じゃなくて二度三度。耳の毛もピンと立っている。
「おっ、ごめんごめん」
「ミーはもう二十連敗してるんだよぉ! ぜんぜん勝てなくてつまんない!」
「変な八つ当たりすんなって。どれくらいここにいたの?」
「二人が旅に出た日の夜、後ろから口を押さえられてさ、それからここにいるよ。ここ、陽が当たらないから日にちの感覚がなくなっちゃうんだよね」
肩を竦めるレイヴン。
カナリーは怯えたような視線をター君へ向ける。
「拉致からの監禁……?」
「俺様はもう帰っても良いって言ったぜ」
ター君は魔法みたいにどこからか甘そうな飲み物を出して、ポンと俺達の前に置いた。
「ここにいれば食費タダなんだよねー」
「体には悪いけどな」と、ター君。
「待つだけならどこでも一緒だし、ター君楽しいし、夜中に建物の中をこっそり探検するのがたまんなくてさ」
足をぷらぷらさせるレイヴン。俺も混ざりたいよ。
「すごく楽しそうですね。いいなぁ」
カナリーは口元を緩ませる。知的好奇心については実に無邪気だ。
「おい、間取り言ったら処すからな? うっかり口滑らすんじゃないぞ?」
鋭くレイヴンを指さすター君。
レイヴンは自信満々にドンと胸を叩く。
「大丈夫大丈夫。ミーはこの耳だって隠し通してきたんだ。秘密は厳守できる」
そして、確信に満ちた笑顔のまま俺達へと目を向けた。
「ところで二人に謝りたいんだけど、秘密、全部喋っちゃったんだよね!」
「秘密は厳守って言った矢先に!」
別に怒っているわけじゃないけど、つい怒鳴ってしまった。カナリーは切り替えについていけないらしく、口をぽかんと開いたまま固まっていた。
「あんなごっつい拷問器具を見せられたらまるっと話しちゃうよ。ミー、三角木馬とか手足を固定する椅子とか初めて見た」
「えっ。使った?」
「ううん。最初に説明を受けて『秘密を話さないで拷問コース』の見学をした後、『おやつを食べながら楽しくお喋りするコース』を選択したよ」
「なるほど、そりゃオフコース」
俺は然りと頷く。もう少し掘り下げたい話題ではあるが、カナリーの前だから下ネタは自重する。
「私もそう思います。レイヴンさんに辛い思いをさせてしまうのは、本意ではありませんから……」
カナリーもこくこくと頷いた。そして、拳を握ってター君を真っ直ぐ見つめた。直前の動作の子供っぽさは一切感じさせない、凜とした涼やかな視線だった。
「それに、いずれはお伝えしなければいけません。種族を問わずに広めて、お互いの理解を深めたいと考えています。もちろん結果を見てから決めていただいて結構です。どうかご協力をお願い致します」
お菓子とカードゲームのふざけた空間が一瞬にして引き締まる。自然と背筋を伸びさせてしまう静謐な声。
不機嫌そうに飄々としたター君の視線が鋭くなった。真剣に受け取っているのだ。
「殺せって指示を出したけど、俺様は勇者に判断を一任したわけよ。まったくもって正解だったね。研究の結論はこれからとしても、あなたが今死ぬことは得策とは言えない」
聞き覚えのある言い回し――というよりも、俺、似たことをこの間言った気がする。ええと……行きの馬車の中で言った!
ター君はニヤッと薄い唇をつり上げた。
「馬車は第二騎士団で用意した」
「なあ、ター君って実は俺のこと信じてなくない? 悲しいんだが?」
「逆だろ。相手が誰であろうと情報収集をするのが俺様達の仕事だ。お前さんの旅がスムースになるように影ながらサポートをしている面を見て欲しい」
「詭弁じゃねーの?」
「仕事だから仕方ないだろ。こっちは黙っててもいいところをあえて言ってんだぞ。お前にはわかって欲しいんだが」
早口のマジな言い返しだった。埃を吸ったのか、ター君は咳き込んだ。
「ごめん。疑心暗鬼になってしまった……」
「許す。嫌われるから高給取りなんだ」
咳払いをしながらター君は俺の肩を叩いた。一発叩いて許してやるっていうくらいの力加減だった。痛ぇよ。ごめんよ。
もう一回咳払いをし、ター君はカナリーへぷくぷくした白い右手を突き出す。
「てなわけで、こっからは共同戦線で行きましょうぜ。カナリーさん」
「ありがとうございます。私、精一杯やります。よろしくお願いいたします」
カナリーの更に白く細い手が、ター君の手を取った。
不意に体に力が入らなくなり、膝が笑った。魂までもが抜けたように声が出る。
「よかった……」
殺さずに済む。ター君を裏切らなくていい。人間を敵に回して逃亡するプランは永遠にお蔵入りだ。その覚悟を手放すだけで安心して、途端に眠気が襲ってきた。
「ター君はいいやつだ! 最後までじっくり話を聞いてくれる。帽子をとっても怖くない相手がいるのは嬉しい!」
レイヴンの耳がオモチャめいてピクピクピコピコとご機嫌に動いた。俺はわかるわかると頷いた。俺にとってはレイヴンがそれ。
「ははは、もっと褒めろ褒めろ。社会人は普段褒めてもらえないから気持ちいいぜ」
高笑いをしたター君は、ふう、と息を吐いてから真面目な顔をした。
「実は第二騎士団本部にもちょっとおかしいことがあってな」
「お化け出る!? 俺、怖い話はムリ!」
古いし、妙なものが出そうな建物だ。俺はぶるっと震えて自分の肩を抱いた。
「バカか! いや噂はあるけど、実際は裏口から出てきた職員だから」
「あ、そうなの? じゃあ大丈夫だわ。遮っちゃってごめんね! 続けて続けて!」
間抜けな方向に話題をずらしたことに気がつき、恥ずかしくなって俺は手をひらひら振る。カナリーが冷ややかに『なにこいつ』って目で俺を見つめてきた。辛い。
「ビビリだ! 勇者なのに!」
レイヴンは俺を指さして笑った。俺は熱くなった顔を両手で隠す。
「そうだよ! 心霊系や都市伝説系は本当に無理なんだよ! もういいだろ! 話、先に進めてって!」
「マジで横道にそれると進まなくなるからな。集中集中」
ター君が雑に手を叩くと、ニヤニヤしながらレイヴンは口を閉じた。カナリーは一言も発していない。
羞恥の熱が冷め切る前に、ター君は気怠げに虚空を見上げた。
「第二騎士団は表向き文書管理科だろ。山ほど資料があるから暇つぶし読んでんだ。するとおかしなもんで、どうも消えてる部分がある。聞いたところで誰も知らねえし、そこまで読み込んでるやつもいねえ。っていうのが第二騎士団に務めてからずっと気になっている謎だ。俺様は家柄が良いが、なぜこんな超出世をしたのか察してくれよな」
ター君はそれぞれと目を合わせる。ちゃんと視線が合う。ぼんやりもしていない。よし、と頷いた。
「で、ちょっと話は飛ぶんだけど。魔王討伐の最中の話だ。最初の方の村でアルが殴った一般人、どうも奇妙なんだよ」
「一般人を殴ったんですか?」
カナリーが非難がましくじろりと横目を俺に向ける。あまりの怖さに、俺はヒッと息を読んでしまった。
「いやあの、違うんだよ。弁解させて? 俺は酔っ払って道ばたで寝ちゃったの。そしたら物取りが剣を持っていこうとするから、何すんだってなるでしょ?」
「酔っ払って道ばたで寝てたんですね」
声までトゲトゲと冷たい。だらしない、と聞こえてきそうだ。どうしよう。ここから印象を巻き返すことってできない?
「うん、まあ、お恥ずかしながら……ていうか、俺、ほとんど記憶ないんだけど、殺しちゃったりとかしてないよね……?」
「ええっ? 記憶がなくなるくらいお酒を飲んだ上に……殺すって……」
本当なら『最低』と言いたいのだろうな。それとも『やっぱり』って思ってるのか。
「違うの、違うんだってば……」
俺、もう、泣きそうだ。漏らしそう。
ター君が大きなため息をついた。
「あまり責めないでやってくれ。勇者は仕事のストレスで病んでる。短期的な辛い記憶を封印してるんだ。酒はストレスを回避するための依存。ここまで健康な生活に戻したのはアルベルトの努力だぜ。もしそいつを責めるなら指示を出している俺様を詰れ。責任者は俺様だ」
ぐっと自分を親指で示すター君。
「あっ? 俺、そんな状態だったの?」
「まあ、うん」
控えめに頷くレイヴンは、視線でター君へ助け船を求めた。
「病感は持ちにくいからな。本人に自覚がなかったら、そいつを大事に思っている周りがサポートするもんだ。っつっても俺は専門家じゃねえけど」
じわっと胸が温かくなって心臓に手を当てる。「ありがとう」と言葉がこぼれた。しかし、冷静に言われると本当にヤバイ気がしてきた。病院嫌いと言わず、勧められたとおり医者にかかった方がいいのかもな……。
「あ……そういう意味だったんですね。ごめんなさい……」
口から出て行った失言を両手で押さえるカナリー。責める目つきから一転、気まずさで視線が泳いだ。
「いや、大丈夫だよ。酔っ払って道中で寝て乱闘したのは事実だ。そう思われても仕方ない。違うって言いたくなったのは、気持ちをわかって欲しいって甘えだろうな。きちんと自分のことを話さないのにわかって欲しいって。バカだな、俺」
誰かにフォローして貰うと気持ちに余裕ができて頭がクリアになる。そうして気がついたことが、自分の情けなさだなんて悲しい話だが。
「アルは一人で抱え込むから疲れちゃうんだよ。もっと甘えた方が良いと思うよ」
まるで子供をあやす手つきでレイヴンに背中をトントンされる。ピンとこなくて「そうなのかな」と眉を寄せると「そうだよ」と返ってきた。
「その一般人だが、アルベルトは殺していない。勇者が寝ている間にこっちで捕縛した。そいつは何にも喋らず、数日後に舌噛んで自死したよ」
俺が覚えていなくても、ター君がわかっていてくれてよかった。それにしても――。
「後味悪い……」
思わず口を押さえる。胃がモヤモヤした。
カナリーが静かに手を上げる。
「その方は、どうおかしかったのですか?」
「三つある。一つは、勇者を殺そうとする動機がない」
「そもそも、殺そうとしていたのですか?」
「酔っていたとしても、相手に殺意がなきゃアルベルトもあそこまでやらないはずだ」
俺そいつに何したの。聞きたいけど怖くて聞けず、胸に手を当てる。まあ、少なくとも死んでいないし……。
「絡む酔っ払いではない。物取りじゃない。魔物でもない。性的暴行目的でもなさそうだ。じゃあなんだ?」
レイヴンが「ヒャッ!」と息を吸い込んだ。変な声が出たことに驚いて身を縮めるが、一拍置いて勢いよく言葉を発する。
「ミーわかっちゃった! 村の人だ! アル、酔っ払って酒場で歌ったんじゃない? ミーと出会ったときみたいに、あの歌を!」
「あっ……ああ! そうか!」
俺はパァンと手を叩いた。よく音が響く部屋だなぁ、エコー掛かって聞こえる。
「俺、寂しいと飲むし、故郷が恋しいと歌うし――って自分の癖を客観的に見るとすげーウジウジしてて嫌になるな! 恥ずかしくて死にてぇよ! いやしかし暗殺されそうになってたのか! とんでもねぇな!」
物事のヴェールが剥がされて頭の中の霧はすっきり晴れた。やり返さないとしょうがないタイプの一般人だし、殺してもいない。気が軽くなるには十分だ。俺の性格にがウジウジしているのは辛いが。
カナリーは怯えて肩を狭める。
「本当に、どこで見られているかわからないんですね……二つ目のおかしな点は?」
「直接的な死因は舌を噛んだことだが、首に掻き毟った跡があった。ついでに三つ目も言うぜ。持ち物に茶葉らしきものがあってな、成分を調べたら一種の毒だった」
「補足をさせてください。その毒は人間には危険だけれど魔物にはおそらく無害でしょう。捕虜になったから自ら口を封じたのか、それとも禁断症状か……ということですね」
二つの知的な目線がぶつかりあう。俺はヒリヒリする言葉の流れを静かに追っていた。
いつもニヤニヤしているレイヴンがすっかり笑みを消して目元を曇らせる。
「やなこと思い出す。ミーの父親もそうだった。禁断症状に耐えられなければ口封じにもなるってわけさ」
ター君は眉をぴくりと動かしただけで、顔色は変えなかった。
「エグいな。話を一週戻そう。文書の欠番は、そういう連中が過去に第二騎士団に就職して該当資料を削除したんじゃないかと推測したわけだ」
俺は少し怖くなった。普通の顔をして忍び込む、いわゆるスパイが多いって、何を信じて良いのかわからなくなってしまう。
「今もいるのかな……第二騎士団に、そういうスパイ……」
「さあな。いるかもな。第二騎士団だけじゃなく、第一騎士団や宮仕えにもいるかもしれない。だが、末端よりも巣を叩けば早いだろう? さあ。勇者の実家で貰ってきた地図を出して貰おうじゃないか」
当然とばかりに手を突き出すター君。カナリーは丸めた地図をスッと取り出した。